『十三の物語』 スティーヴン・ミルハウザー   ☆☆☆☆☆

先週末はグランド・キャニオンへ旅行していたせいで更新できなかった。毎日朝の4時や5時に起床して日の出を眺めたりしていたせいで、旅行から帰ってきた時はものすごい疲労感だったが、その甲斐はあったと言っておきましょう。

さて、本日のレビューはミルハウザーの短篇集『十三の物語』について。再読。ミルハウザーは中篇や長編も書く作家で、短篇集といっても目玉となる中篇があったり色々と特徴があるけれども、本書はまさにさまざまな傾向の短篇を取りそろえたミルハウザー印アソートメントという趣きだ。コンパクトな短篇が十三篇収録されていて、短篇作家ミルハウザーの魅力を心ゆくまで堪能できる仕様となっている。

しかも全体が「オープニング漫画」「消滅芸」「ありえない建築」「異端の歴史」と四つのセクションに分かれていて、「オープニング漫画」は前段ということでまず一篇、あとは各セクションに四篇ずつ短篇が並んでいる。それにしても「消滅芸」「ありえない建築」「異端の歴史」とはまったくミルハウザーらしいカテゴリー分けで、同時にこの分類方法はミルハウザーでしかありえないだろう。この目次を見ただけでワクワクしてくるのは私だけではないはずだ。

最初のオープニング漫画「猫と鼠」はタイトル通り、あの「トムとジェリー」のアニメーションをデフォルメやギャグ含め全部文章で再現した短篇で、こんなものミルハウザー以外誰も書こうとは思わないだろう。アニメを文章にして何が面白いのと思われることだろうが、私が思うポイントは二つある。一つは体が円盤状になったりアコーディオン状になったりというアニメ表現をそのまま律儀に言語化することで生じるおかしさと違和感、もう一つは、アクション表現だけでなくトムとジェリーの永遠に変わらない関係性への考察や心理描写が入ってくること。永遠の追っかけっこを繰り返す猫と鼠は、一体自分達の存在をどう思っているのだろうか。これを書けるのが小説の醍醐味であり、またミルハウザー作品が持つ批評性だと思う。

「消滅芸」セクションに入って、まずは「イレーン・コールマンの失踪」。これは典型的ミルハウザー作品で、音楽CDでいうならば冒頭にキメ曲を持ってきたなという感じだ。イレーン・コールマンという目立たない女性がある日突然失踪し、その失踪から町にはさまざまな波紋が広がっていく。題材がマニアックな芸術家やオブジェではなく、不可解な事件(現象?)である点で、「夜の姉妹団」タイプの短篇だ。ストーリーというようなものはなく、ただ失踪事件のさまざまな局面や要素を緻密にこと細かに提示し、掘り下げ、考察していく。その中で、イレーン・コールマンという女性についての色んな不思議が立ち上がってくる。最後の落としどころは私としては意外で、ミステリアスなまま終わっていくかと思ったら急に幻想へとテイクオフする。ミルハウザーの魅力とテクニックとオリジナリティが完膚なきまでに発揮された、華麗で甘美な短篇だ。

「屋根裏部屋」は子供時代の回想形式で語られる、常に暗闇の中にいる女の子の物語。語り手が友人宅へ遊びにいくと妹を紹介されるが、妹は真っ暗な部屋の中にいて絶対に灯りをつけない。主人公の少年は彼女をまったく見ることがないまま親しくなっていく。これもミルハウザーらしいアクロバティックな発想で、到底リアリズムで書ける小説ではないけれども、よくあるシュール系の短篇みたいにジョークにならず、精緻な工芸品のようにきちんと丁寧に組み立てられている。この几帳面さがミルハウザーらしさであり、魅力だ。

しかしこんなムチャな話にどうオチをつけるのかと思っていると、まったく見事としかいいようのない結末に至る。本当に素晴らしい。読み終えてみるともうこれしかないと思わせるエンディングで、グロテスクにもセンチメンタルにも興ざめにもならず、エレガントで軽やかな観念のファンタジーのまま、見事な余韻の尾をひいて物語が収束していく。

一方で、「危険な笑い」はほとんどジョークに近いナンセンスなアイデアがベースになっていて、笑いの芸の流行と衰退を描く。「ある症状の履歴」も同じ類の短篇で、言葉への違和感そのものが事件となり、共同体に危機をもたらす。観念性のきわみというべき短篇で、小説以外で(つまり映画や演劇で)こういうネタを扱うことは不可能だろう。

「ありえない建築」セクションに移り、まず「ザ・ドーム」では家を透明なドームで包むというアイデアがエスカレートし、地球全体に広がっていく。めまいを誘う壮大なSF的アイデアだが、ミルハウザーが体質的に持っている箱庭的世界への憧憬が隠し味のように舌に残る。「ハラド四世の治世に」はお得意のミニチュア細工師の話で、「ニューヨーカー」誌の傑作アンソロジー『ベスト・ストーリーズIII カボチャ頭』にも採られている。

「もうひとつの町」は人々が住む町のコピーがもう一つあるという奇怪な設定で、ミルハウザーの力技といっていいだろう。結構分かりにくい。そのコピーは細部まで同じだが人間は住んでおらず、またオリジナルの町の住民はいつでも自由に入っていける。なんでこんな町があるのかというあたり含め分かりにくいのだが、ただ奇妙なオブジェを描き出すだけでなく、それが人々の心へどう影響するかを思考実験するのがミルハウザーの狙いのようだ。

そして「塔」は信じられないほど高い塔の物語で、設定や語り口はカフカみたいだが、寓話になってしまわずフェティッシュな細部へのこだわりが読みどころになっている。つまり塔は何かのメタファーではなく、それ自体が魅惑的なオブジェなのであり、そうした見方こそがこの作家の嗜好なのだ。そしてこの短篇のエンディングは、通常デリケートな結末を好むミルハウザーにしてはあまりにも劇的で、壮絶という他はない。

「異端の歴史」セクションではまず、そのものズバリの「ここ歴史協会で」。これはモノへのこだわりを描いているようで、実は人間の認識のあり方と戯れている。つまり、見方を変えれば世界が変わる、ということをミルハウザーを強調する。たとえば歴史協会の人々が現在のことを「新過去」と呼ぶこともそうだし、目を閉じて開けるまでの一瞬の闇で世界が過去へと落ちていく、という詩的かつ哲学的な文章も登場する。ミルハウザーは言葉を武器に読者の認識を揺るがそうとしている。

この後の三篇もそれぞれ別の題材を扱いながらミルハウザーらしい感触の作品で、「流行の変化」は奇想天外な衣服の流行、「映画の先駆者」は動く絵画の発明者の肖像、「ウェストオレンジの魔術師」は触覚のイリュージョンを研究する魔術師を描いている。中でも「映画の先駆者」はどこか不気味で、ミルハウザーのダークな持ち味が発揮された印象的な作品だ。動く絵画といってもアニメーションではなく、実際に絵画の中から人が出て来たり風景が変化したりするという、現実にはありえない芸術が題材になっている。

こうやって読み通してみると、あり得ない現象、事件、芸術、オブジェを描くという似たようなスタイルでありながら、当然それぞれが違う。ここまで特殊な題材にこだわって書いていればマンネリに陥りそうなものだがそうならず、常に新しい何かがある。それが凄い。失踪事件、ドーム、町のコピー、奇抜な服などの登場とその後の展開を描くというスタイルだとどうしてもパターン化しそうだが、ギリギリのところでパターン化していない。ひとつひとつがユニークな面白さを持っている。

そしてもうひとつ、本書を読んで強く感じるのは、ミルハウザーはオブジェや不思議な現象を細工師のように作り出す職人的作家という印象が強いが、実は言語をつかって世界を、現実を、ひいては読者の「ものの考え方」を変えようとしている恐るべき作家ということだ。それは「危険な笑い」「ある症状の履歴」「ここ歴史協会で」などを読めばよく分かる。ほとんど言葉遊びに近づいているこれらの短篇では、ミルハウザーの標的はオブジェでも奇想でもなく、読者の認識そのものなのである。

最後に私のフェイバリット作品をあげておくと、「イレーン・コールマンの失踪」「屋根裏部屋」「ハラド四世の治世に」「塔」「ここ歴史協会で」「映画の先駆者」あたりである。

 

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