『大人のための残酷童話』 倉橋由美子   ☆☆☆

本書はタイトル通り、古今東西の童話、お伽噺のパロディ集である。グリム童話やギリシャ神話のような西欧のものから中国、日本まで幅広くカバーしていて、日本のものでは「かちかち山」や「かぐや姫」みたいな超メジャーな昔話もある。一つ一つは短く、全部で26篇収録されている。

童話ということで文体はですます調、しかも旧かな遣いである。たおやかで雅びな雰囲気が濃厚に漂う。各篇の最後に一行二行ぐらいの「教訓」がついているが、もちろん真面目なメッセージじゃなく洒落で、ブラックだったりナンセンスだったりはぐらかしだったり、要するにふざけている。たとえば人魚姫のパロディ「人魚の涙」には「人は下半身には恋しないものです」、カフカ「変身」のパロディ「虫になったザムザの話」では「厄介者をどうにかするのは家族の責任」、プシューケーとエロースが登場するギリシャ神話のパロディ「ある恋の物語」には「坊やには恋をする資格はないのです」という「教訓」がついている。

以上が本書の体裁だが、内容はというと作者が自分であとがきに書いている通り、残酷とエロスが目立った特徴になっている。作者自身の弁によれば、お伽噺の世界は因果応報、勧善懲悪、自業自得の原理によって支配されている。そして「子供がお伽噺に惹かれるのも、この白日の光を浴びて進行していく残酷な世界の輪郭があくまで明確で、精神に焼き鏝を当てるやうな効果を発揮するからです」ということだ。

従って、これまた作者自身の言葉を引用すると、本書は「童話であつて小説ではない」「描写を通じて情に訴へるといふ要素をすつかり捨てて、論理によつて想像力を作動させることを狙ってゐる」そうである。つまり、小説とは普通「描写を通じて情に訴へる」ものなのだけれども、これには一切そんな要素はありません、だからこれらは小説ではありませんよ、と言っているわけだ。

これはパスカル・キニャールがいう「物語<コント>」のアイデアにとてもよく似ている。キニャールの方も「赤ずきんちゃん」のような民間伝承的作品を引き合いに出しているので、本書で倉橋由美子氏も同じようなものをイメージしているのだと思うが、ただ本書収録の諸篇はキニャールが書くコントほど過激でもミステリアスでもない。キニャールは、コントの一見して明らかな特徴はその「極端に切り詰められた簡潔さ」であり、それが読者に「読後茫然自失状態をもたらす」と言っている。「切り詰められた簡潔さ」は本書にも当てはまるかも知れないが、それが「読後茫然自失状態をもたらす」までには、さすがに至っていない。まあ、キニャールと比べるのはフェアーではないと思うが。

従って、一つ一つの作品が短く簡潔な本書に個人的にはいささか物足りなさを感じざるを得ず、昔から時々手にとってはパラパラめくっていくつか拾い読みする、という程度の読み方していなかった。今回は通して読んでみたわけだが、全体としてはまあ、やっぱり多少の物足りなさは否めない。「茫然自失状態」というほどのものはなく、洒落と皮肉がきいた童話のパロディ集ぐらいの趣きだ。

ただ、後半には結構インパクトのある作品もあった。「鬼女の島」「天国へ行った男の子」「安達ケ原の鬼」「異説かちかち山」「飯食はぬ女」あたりだけれども、これらはお伽噺というよりほとんど恐怖譚に近い。あるいは妖怪ものと言ってもいいかも知れない。それぞれに印象的なモンスターが登場する。

「鬼女の島」はタイトル通り鬼女だが、「天国へ行った男の子」ではたとえば、教会の聖母像が夜になると動く。それを少年が目撃するのだが、聖母像は残飯を貪り食ってどんどん太り、食う姿も片膝立てて座って手づかみで、というあさましい姿を見せる。「インド人のやうな姿勢で」なんて文章が出て来る。そしてこの作品の「教訓」は、「神様とはつまりお化けなのです」

身も蓋もない。他のも「安達ケ原の鬼」はほぼストレートな怪談で、血なまぐさく恐ろしいし、「異説かちかち山」は色々と仕返しされる狸が実は本物のおばあさんだったという話でえらく残酷だ。「飯食はぬ女」はもう完全に妖怪の話である。このあたりはかなり面白かった。こういう強烈なのが収録作の半分ぐらいあれば、もっと迫力が増して「残酷童話」のタイトルに相応しい一冊になっただろうと思う。

とはいえ、本書は童話のパロディ集としては悪くない。アソートメントのような楽しさがあるし、加えて旧かな遣いの「ですます」調の文体に独特の風情があり、ところどころに挿入されている山下清澄氏の精密な銅版画はピアズレー風で格調高い。内容だけでなく、そういう装幀も含めると結構愉しめる書物だ。

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