『キャリー』 スティーヴン・キング   ☆☆☆★

本棚の整理をしていて出てきた古い文庫本を再読した。ご存知、モダンホラーの帝王キングのデビュー作である。が、そんな記念すべき作品の割には、キング・ファンの話題に上ることもあんまりない地味な存在だ。デ・パルマの映画の方がよっぽど有名。というより、『キャリー』と言えば映画版しか知らない人が大多数だと思う。

次作の『呪われた町』が名作の名を欲しいままにしていることを考えると不遇だが、確かに後のキング作品を知って本書を読むと、キング特有の濃厚さ、粘りに粘る偏執狂的な書き込みがなくいやにあっさりしている。短いし、薄いなあと感じてしまう。しかも物語の中に記事の引用、書物からの引用、証言記録などがひっきりなしに挿入され、物語世界に没入する愉しみを妨げる。このパスティーシュのテクニックは初期のキングの得意技で、『デッド・ゾーン』あたりでは効果的に使われストーリーを引き立てていたが、本書の場合いささか過剰である。

が、これもキングが念動力という非現実的な題材にいかにリアリティを持たせるかに腐心した挙句、採用した手法なのだろう。キングは作中に実在の商品名やテレビ番組名などを頻出させることで有名だが、このパスティーシュの手法もそれと同種のものと考えられる。キングは徹底的にノンフィクションを装うことで、超自然現象の荒唐無稽さを和らげようとした。念動力の実在に関する学術論文まがいの文章が多数引用されているのがその証左である。

本書はキング作品中でもマイナーと最初に書いたが、とはいえ処女作というのは作家の資質があからさまに出るもので、本書の特徴は後のキング作品を考える上でなかなか興味深い。第一の特徴は言うまでもなく、超自然現象を題材にしながら、それをとことん現代社会の日常的リアリズムをもって描くスタイル。第二は、本書あとがきにもあるように、ただ超自然現象や不気味な存在をもってきて怖がらせるのではなく、現実的な恐怖を物語のベースとすること。本書の場合は明確に、ティーンエイジャーがクラスメイトから仲間外れにされる恐怖である。

『キャリー』がアメリカで出版されたのは1974年だが、本書にはすでにスクールカーストの概念がある。スクールカーストという言葉が日本で広まったのは2006年頃らしいので、その早さには驚くばかりだ。こうした思春期の悩みは時代にかかわらず普遍的ということだろう。本書ではスー、トミー・ロス、クリスが最上級カーストに所属し、キャリーは当然最下層である。スーが自分は人気がある女子なので、同じく人気があるトミー・ロスと付き合うのは当然と考えた、というような一節がある。一方キャリーは生徒全員が公認する侮蔑の対象、嘲笑の対象であり、一緒にいようものならそれだけでredicule(カッコ悪い)と見なされる存在である。こうした地位におかれることがどれほどの恐怖か、ティーンエイジャーなら誰でも知っているはずだ。本書を根本で支えているのは、きわめて現実的な恐怖なのである。

ちなみに『シャイニング』ではアル中になる恐怖、『ファイアスターター』では国家権力に騙される恐怖、『ペット・セマタリー』では我が子を死なせてしまう恐怖、が小説を支える重要な下部構造となっている。キングのホラーがここまで一般受けするのはこれに負うところが大きいと思う。

さて、三つ目の特徴は年代記的手法である。キングは単なる脇役を登場させるにも生い立ちから書き込んだり、舞台となる町の起源から由来まで書き込んだりする作家だが、本書ではキャリーの母エリザベスの生い立ち、結婚、キャリーの誕生などの過去の経緯が詳細に語られている。キャリーの祖母がやはりテレキネシスの所有者だったことも述べられる。キングが物語に厚みを加える、お得意の手法である。デ・パルマの映画では、このあたりはばっさりカットされている。

四つ目は狂信者が登場すること。もちろん、キャリーの母エリザベスである。彼女はある意味キャリーを最下層の生徒たらしめた張本人で、近所でも有名な彼女の異常な振る舞い、キャリーに施す異常な教育がなければ、キャリーはもっとまともな少女になっていただろう。エリザベスの言動が本書のオカルティックな味わいの主な要因だが、キャリー幼年期の石が降ってきたエピソードや神と悪魔についての会話などの宗教性は、本書にとってとても重要なスパイスになっている。いわばスクールカーストの悩みと宗教的狂信がストーリーの両輪となっている、と言ってもいい。ちなみに狂信的なクリスチャンは『デッド・ゾーン』など後の作品にも登場し、キングにとって一つのオブセッションなのではないかと思われる。

それともう一つ、本書は全篇が「血」のモチーフで貫かれているのも大きな特徴だ。キャリーが初潮を迎えるシャワーシーンで始まり、それが劇的に拡大再現されたのがクライマックスの豚の血を浴びせられるシーン。そして物語の終わりには、突然スーの生理が始まる。

このように、キングの処女作には色々な趣向や工夫が凝らされており、やはり巧みだ。が、おそらく本書最大の特徴は、そんな細かな計算や趣向にもかかわらず、単純この上ないエンタメ的アイデアが核になっていることだろう。つまり、念動力を持ったいじめられっ子が最後の最後にいじめっ子達に派手な仕返しをする。多少なりともいじめを経験したことがある人で、この手の妄想を抱いたことがない人はまずいないだろう。アイデアとしてはありきたりで、きわめてベタといってもいい。そしてキングはいじめを最高にえげつなくし、最後に炸裂する復讐劇をこの上なく壮絶なものに仕立てることによって、エンタメ的快感を、カタルシスを担保した。キングはやはり生まれながらのエンタメ作家なのである。

さて、最後にデ・パルマの映画版との違いについて触れると、まず全体として映画版の方がはるかに青春ものの香りがする。小説はルポルタージュ形式になっていて、そこまでの甘酸っぱさはない。小説にあって映画にないものとしては母親の生い立ち、祖母、死んだ父親のことなどを描写した部分。プロム参加を禁じられたクリスの父親である弁護士がやってきて校長と対決するシーンも映画にはない。こういういやらしい俗物を出して読者に反感を持たせ、物語に引き込むのもキングの得意技である。

キャリーが念動力の練習をするシーンも映画にはない。全体に、小説ではキャリーが自分の能力について色々と研究することになっている。念動力を使うと体に大きな負担がかかることも、その過程で発見する。それから映画でトラボルタが演じた不良学生ビリーは、小説では単なる不良というより底知れない深みを持つ邪悪な存在として描かれている。またクライマックスの流れも異なり、小説ではキャリーは一度体育館の外に出て、それから念動力で体育館を攻撃する。その後母親を殺すために一度家に戻り、また外に出て町の破壊を続ける。映画では母親を殺すのはもののはずみだし、キャリーは母の死体を抱いたまま家の下敷きになる。もちろん、キャリーが町全体を破壊するようなことはない。

こういう違いがあるので、原作小説と映画は別バージョンと言っていいぐらい感触が異なる。だから映画を観た人が小説を読んでも、十分楽しめるはずだ。それに『シャイニング』や『デッド・ゾーン』ほど神がかってはいないけれども、やっぱり面白い。分かりやすい盛り上がりと読者の不安を煽るキングのテクニックの確かさは、この処女作でもすでに明らかだ。

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