『1秒24コマの美 黒澤明・小津安二郎・溝口健二』 古賀重樹   ☆☆☆☆★

本書はタイトル通り、日本映画史上の三人の巨匠について書かれたノンフィクションで、日経新聞に連載されたものだそうだ。アマゾンの紹介文を読むと「同時代の文化史の中に映画を芸術と並列して位置づける刺激的な試み」とあって、確かによくあるエッセイ的な映画評論の本とは少し違う。たとえば映画のセットや美術にフォーカスして詳しく論じたり、映画の構図を絵画と比較して論じたりしている。だからこれらの監督の評価を知りたい人が最初に読む本というより、もうかなり良く知っていて更にディテールを掘り下げてみたい人向けの本かも知れない。もちろん、それぞれの監督がどんな考えで映画を撮っていたかも、スタッフや役者さん達の証言を引用しながら詳しく語られる。

まず黒澤の章では、私がそれほど好きではない後期作品、たとえば『夢』や『乱』や『八月の狂詩曲』などへの言及が比較的多くて、『夢』の中でゴッホの絵を再現した時のこと、たとえば黒澤監督がロケ地の広大な麦畑を見て感嘆したエピソードなどが紹介される。完全主義的なこだわりで有名な黒澤監督のエピソードとしては、『天国と地獄』で特急の窓から見える民家の二階を一日だけ撤去したという、ファンの間では有名な話も出て来る。黒澤監督は撮るに値する被写体を作り上げることにとことんこだわったらしく、つまらないものはどんな撮り方をしてもつまらない、みたいな言葉を残している。

それから個人的にとても面白かったのが、雨や風への偏愛。確かに黒澤映画では雨がよく降る。『七人の侍』のクライマックスの土砂降りをはじめ、『羅生門』の雨宿りする三人、『生きる』の工事現場で傘をさしかけられる志村僑など、印象的なシーンがいくつもある。風は言うまでもなく『姿三四郎』の決闘シーンでの強風、『用心棒』全篇に渡って吹き続ける空っ風などすぐに思いつく。いずれも激しい、強烈な天候であって、その中で演技する役者にもあらがい、格闘するという楽ではない姿勢が求められる。それらが画面の印象とあいまって、黒澤映画のダイナミックな迫力を強化する結果になっている。逆に小津映画では雨のシーンは珍しい(有名な『浮草』の豪雨シーンは例外的)らしいが、やはり監督の好みはこういうところにも出るのだなと思った。また、なるほどと思ったのは、風については日本映画はアメリカ映画に負ける、しかし雨では負けない、という黒澤監督の言葉である。

小津の章ではまず、数々の小津映画の中に登場した絵画について語られる。さりげなく壁にかかっていたりするのだが、あれらの絵は全部本物だったらしい。そして更に、それらの見せ方や画面全体の色調へのこだわり。やはり小津の最大の特色はコンポジションへのこだわりなのだ。しかもそのこだわりは黒澤のように動的なものでなく静的なものである。本書では小津のコンポジションの芸術性にスポットがあてられ、同時に関連する画家の作品が多く掲載されている。特に小津の初期作品のモダニズムについて語られる章では、掲載されている絵やポスターが面白くてとても愉しめた。

それからこれも小津といえば欠かせない話題、イマジナリー・ライン。会話する役者の顔を交互に映し出す小津独特のシークエンスで、カメラがイマジナリー・ラインをまたいでしまうという、通常映画においてはタブーとされている撮り方のことだ。小津は平気でこれをやる。これもコンポジションの美しさを何よりも優先させるという小津美学のなせるわざだ。加えて、観客はちゃんと理解してくれるよとも言っていたらしい。

しかし小津の章でもっとも印象に残るのは、小津監督が自分のイメージに近づけるために、役者たちの動きをミリ単位で指示したということだ。小津は役者が現場で生み出す予想できない何かなど求めてはいなかった。彼にとって映画作りとは、すべてを事前に計算し、自分の頭の中にあるイメージを完成形として、あらゆる細部をそれに近づけていく作業だったのだろう。一般にクリエイターの基本的な姿勢として「計算を超える何か」「予測できない何か」をいわば偶発的に生み出し、作品に反映することがアーティスティックとされる風潮があるようだが、そうではなくきっちり計算して、事前に青写真を描くことを重視するアーティストも当然ながらいる。小説の世界ではポーや筒井康隆やミラン・クンデラがそうだけれども、小津監督も間違いなくこのグループの一員である。

そしてラストが溝口の章だが、このパートが一番力がこもっている気がする。ここで一番スペースを割いて詳述されるのはフランスの映画監督たち、たとえばゴダールやロメールやリヴェットがいかに溝口から大きな影響を受けたか、いかに彼らが溝口を崇拝しているか、である。これらヌーベルヴァーグの巨匠たちは伝統的な名画を否定したはずなのに、なぜさほど前衛的とは思えない溝口映画をあれほど賛美したのだろうか。

本書ではその理由としてまずワンシーン・ワンショットの技法が挙げられている。モンタージュ理論、つまり従来のカット割りのやり方への異議申し立てから始まったヌーベルヴァーグの映画作家たちにとって、溝口の映画は反モンタージュ理論の恰好のお手本だった。そしてもう一つの理由は、女性へのまなざし。溝口の映画におけるヒロインつまり女性は、ほぼ必ず「高貴な精神を持っているのに、男の支配を受け、娼婦であらざるを得ない立場に追いやられる」。これが溝口映画の本質であり、ヌーベルヴァーグの作家たちが東洋の一映画作家から受け取った、映画の本質を指し示すまばゆいばかりの啓示だった。

それにしても、溝口はヴェネチア国際映画祭で1952年の監督賞(『西鶴一代女』)、1953年の銀獅子賞(『雨月物語』)、1954年の銀獅子賞(『山椒大夫』)と三年連続受賞している。ほとんど信じられない快挙である。東洋の小国から彗星の如く出現したこの映画監督がヨーロッパの人々に与えた衝撃の大きさはいかばかりだったか。本書にはリヴェットが溝口の演出について語ったセリフが引用されている。「溝口においては、その純粋さはいままで西洋の映画が例外的にしか到達できなかったレベルにまで高められている」

もう一つ興味深かったのはある批評家の言葉で、それは(溝口においては)ある映像、あるショットが美しいものになるやいなや不幸なことが起こる、というものだ。美しさが不幸の予兆なのである。映画とは、なんと奥深いものなのだろうか。

溝口の撮り方はさっき述べた小津とは正反対で、役者にはどうしろこうしろとは一切指示せず、自分たちの工夫に任せたそうだ。その上で気に入らなければ何度でもやり直させ、気に入ったものが出て来るまで待った。本書には『近松物語』や『山椒大夫』での香川京子の苦労話などが出て来るが、これはきついだろうと思う。ダメだと言われるがどこがどうダメなのかは教えてもらえず、自分で考えてなんとかしなければならない。

それにしてもこれだけ両極端な撮り方をする二人の監督が、二人とも世界の頂点をきわめる映画を遺し、類稀な芸術家として歴史に名を刻んでいるのだから不思議だ。要するに、創造の方法に正解はないということだろう。

色んな感想をだらだら書いてしまったが、こんな風に本書はとても示唆に富む内容の本である。黒澤、小津、溝口と三人の巨匠を並べて対照できるようにしているところがミソだ。日本映画好きにはたまらないだろう。

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