『ビッグ』 ペニー・マーシャル監督   ☆☆☆☆

iTunesのレンタルで鑑賞。1988年公開作品で、とてもなつかしい。時代がなつかしいだけでなく、映画の雰囲気やストーリーにも今はない80年代頃の暖かさみたいなものがあって、観ているとなんだか甘酸っぱい気分になる。主演のトム・ハンクスは当時「この役を演じるために生まれてきたと思えるほどのハマリ役」と言われたものだが、とにかく若い。その後大俳優になっていく彼だけども、この頃はまだチャラさもあるコメディアン出身のチャーミングな青年だ。

私も若い頃この映画がとても好きだったが、その後長いこと観ていなかったので、今観るとしょぼく感じるかも知れないとちょっと心配したけれども、全然そんなことはなかった。もちろん最近の映画とは違って色々おおらかだが、今観てもちゃんと面白い。やっぱりこの映画は傑作だ。

あらすじは次の通り。13歳の少年ジョシュは周りから子供扱いされるのがイヤになり、願い事をかなえるというカーニバルのゲーム機にコインを入れて「大きくなりたい」と願う。で、翌朝目を覚ますと、30歳ぐらいのおとなになっていた。パニックになったジョシュは母親に告白しようとするが誘拐犯に間違えられ、しかたなく逃げ出し、親友のビリーに助けを求める。二人でカーニバルのゲーム機を探すがもう撤去されている。ジョシュはしばらくの間ニューヨーク市内のホテルに泊まり、ゲーム機が見つかり次第また願い事をして元に戻ることにする。

当面の生活費をかせぐため、ジョシュは求人に応募しておもちゃ会社のコンピュータ係になるが、おもちゃ好きと子どもそのものの感性が社長に気に入られ、製品開発部のVPに抜擢される。社内の注目を浴び、スーザンというやり手のキャリアウーマンと親密な仲になったり、スーザンの元カレに敵視されたりと生活が激変。おとなの世界を垣間見て戸惑うジョシュだが、一方でおとなの世界に順応し始めたジョシュとビリーの間に亀裂が入る。スーザンを好きになったジョシュは、これから自分がどうするべきか悩むが…。

まあ言ってみれば他愛のないファンタジーで、13歳の少年が一夜にしておとなになっておとなの世界に放り込まれたら…というワンアイデアから生まれた映画である。おとなの世界の常識とジョシュの行動のアンマッチが笑いを誘うコメディなのだが、ただそれだけでは終わっていない。

言ってみれば、これはたとえば『天使のくれた時間』のように魔法によって別の人生を垣間見るファンタジーであり、『ある日どこかで』のように時を越えた男女のラブ・ストーリーでもある。まあこの二作ほどはっきりその路線ではないが、その要素が部分的にある。この手のファンタジー映画では「時間」という超越的なもの、絶対に人間が思い通りにできない巨大な障壁が立ちはだかることによって物語のせつなさが増すのだが、その効果は、本来ゆるく愉しいコメディ映画である本作にも確実にあらわれている。それがスパイスとなって、この映画の微妙な、しかし素晴らしい余韻が生まれたと私は思う。

この要素は映画の後半で浮上してくるのだが、最初のうちジョシュはただ楽しんでいる。マンハッタンの安宿に泊まった初日こそ心細さに涙する彼だが、おもちゃ会社に就職してからはトントン拍子で、見たことないような額の給料をもらってビリーと豪遊したり、おもちゃを買い漁ったりする。社長に気に入られてVPになり、スーザンが接近してきて親密な関係になる。

ここでもう一つのポイントは、この映画では主人公とヒロインが二人して変化していく、ということである。スーザンは決して最初からマドンナ的に完成された、清廉潔白なヒロインではない。昔観た時ははっきり意識しなかったけれども、彼女はむしろ手段を選ばない出世主義者のビッチである。急に出世したジョシュを見て、いわば恋人のポールを見限って、有望株であるジョシュに接近していく。彼女を非難するポールの言葉からも、過去スーザンがそういう行為を繰り返してきたことがうかがえる。

が、彼女はジョシュに接することで変わっていく。美貌と色気を武器にジョシュをものにしようとしても思い通りに反応しないジョシュに最初は戸惑い、あきれながら、やがてジョシュの打算のなさに惹かれていく。「君はぼくがこれまで会った中でいちばんいい人だよ」とジョシュがためらいなく断言した時、彼女は複雑な表情を浮かべる。こういうディテールが、この映画では意外と丁寧なのだ。このようにして、彼女は出世しか頭になかった過去の彼女から脱却していく。

そして次に、ジョシュも変わっていく。彼が子供の感性でおとなの世界をかき回すのが前半のコンセプトなのだが、スーザンとの恋愛を機に、彼自身が変わり始める。コーヒーをブラックで飲むようになり、いいスーツを着て、スーザンを伴ってディナーパーティーで社交的な会話をこなすようになる。そしてそれまでのように遊び感覚でなく、責任感を持って仕事に取り組み始める。その結果、あれほど親密だったビリーとの間に亀裂が生じる。ジョシュとビリーはそれまで完全に同等だったのに、ジョシュがビリーをおとな目線でたしなめるような言動が増えてくる。そのことに衝撃を受け、傷ついたビリーはジョシュを非難する。

子供からおとなへの変化。私たちがジョシュに見るのはこれである。これはある意味自然であり、誰もが通る道だ。決して悪いことではない。が、まだ子供であるビリーの目には明らかに凶兆なのだ。彼の親友が何か別のものに変わっていく。そして映画を観ている私達も、ジョシュが大人びていくのを複雑な気持ちで眺める。なぜなら私達は、それまでの天真爛漫なジョシュを愛するようになっているからだ。

こうして後半、ジョシュは難しい選択に直面する。スーザンとともにおとなの世界に残るか、ビリーとともに過ごす子供の世界に戻るか。最終的に、ジョシュはまた子供に戻ることを選択する。スーザンに別れを告げ、家族やビリーのもとへ帰っていく。

まだ早い、自分は13歳なのだから、というのがストーリー上の理由だが、もちろん、ここでおとなの世界のステイするという選択肢もあった。つまり、ジョシュがスーザンとともに生きていくという結末である。が、もしそういう展開にしてしまうと、この映画のストーリーを支えるダイナミズムは大きく損なわれてしまったはずだ。なぜならこの映画は魔法の時間を描いており、私達は魔法の時間とは必然的にテンポラリーであり、期限付きであることを知っているからだ。私達はこの映画を観ながら、ジョシュがいずれ子供の世界へ戻っていくことを予感している。

もう一つの選択肢は、スーザンを連れて子供時代に戻るというものだ。実際、スーザンと離れたくないジョシュをそれを提案する。するとスーザンは言う。「私はもう、そこを通り過ぎてきたのよ(I’ve been there before)」

幸福な子供時代にもう一度戻ってもいいじゃないか、スーザンの子供時代はそんなに不幸だったのかな、と思う人がいるかも知れないが、これはそういうことではない。幸福か不幸かは別にして、子供時代とはただ一度しかないものであり、それが人生の真実なのだ。子供時代がいかに素晴らしくても、それを二度繰り返すことに意味はない。

突拍子もない連想かも知れないが、私はこの場面で小津の『晩春』を思い出した。ずっとお父さんと一緒に暮らしたいという原節子に、笠智衆が「お父さんの人生は終わりに近づいているが、お前の人生はこれからなんだ。だからお前は自分の人生を作り上げていかなくちゃいけない。これが歴史の順序というものなんだ」と言い聞かせる場面である。この時のスーザンは、ちょっとこれに近い心情だったんじゃないかと思う。ジョシュとは別れたくないが、自分が子供時代に戻ることはもはやできない。が、ジョシュはまだこれからなのだ。

こうしてジョシュはスーザンやおとなの世界に別れを告げ、もといた世界に戻っていく。ラストシーン、子供に戻ったジョシュとビリーが並んで歩く姿を見て、観客は魔法の時間が終わったことを知る。この幸福感と、そこに入り混じった一抹のやるせなさが、この映画を忘れがたいものにしている。

そしてもう一つ、このラストシーンで私達観客がどうしても思わずにいられないことがある。それはジョシュもビリーも、やがて避けようもなくおとなになっていくということだ。この後に本当の変化、もはや決して引き返せない変化がやってくる。かれらが今のままの無邪気な子供でいられる時間は、決して長くない。それは本当に夢のような時間であり、あっという間に失われてしまうものなのだ。

私達はそのことを良く知っている。そしてそれが、この映画の幸福な余韻をさらに複雑なものにするのである。

 

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