『ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること』 ニコラス・G・カー   ☆☆☆☆★

スウェーデンのお医者さんが書いてベストセラーになったという『スマホ脳』の次にこれを読んだら、よく似た内容だった。基本的なテーマは同じと言っていいと思う。とはいっても重複感はなく、同じテーマを違う観点、違う裏付け、違う論旨で読むことで理解が深まり、とても有益だった。このテーマを深掘りしたい人にはおススメである。

ところで本書はきわめて知的かつマジメな本なので、「ネット・バカ」という邦題はまったくもって不適切だと思う。これじゃ軽薄な本だと思って敬遠する人がいるかも知れない。本書の中にもあるが、「ネット・バカ」なんてタイトルは「刺激をあたえて注意を惹きつけさえすれば良い」というネット的、SNS的センスであって、本書はそうではなく本来の意味での思索的な本だ。原題は「THE SHALLOWS」。浅はかな人々という意味である。

テーマは、インターネットとそれに関連して提供されるサービスやテクノロジー(スマホ、グーグル、SNS等)が人間の脳にどう影響を及ぼすか。これを主観的にではなく、脳科学や神経科学の実験、過去の論文等を踏まえて科学的に検証していくのが特徴。『スマホ脳』もその点は同じだが、この本の方がより詳細で丁寧と言っていいだろう。前半では書き言葉や印刷技術や本の普及が人間の思考にどう影響したかを詳しく説明していて、読んでいる時は「これネットとは関係ない話だな」と思ったが、後で重要になってくる。これを頭に入れておくことでネットが脳に与える影響がよりよく理解できるのだ。つまり、それぐらい丁寧である。

当たり前のことなのに普段私たちが忘れていることとして、人間の思考における言葉の重要性がある。言葉がなければ思考もない。そして言葉には、話し言葉と書き言葉がある。話し言葉の方が先に生まれたというのは誰もが感覚的に納得できるが、書き言葉、更に言えば「読む言葉」の重要性を、私達は果たして十分に理解しているだろうか。自分一人で思考したり目の前の人と議論する分には話し言葉さえあれば事足りるかも知れないが、共同体レベル、国レベル、世界人類レベルで知識や思考を共有するためには、書き言葉が不可欠だ。つまり、文明とは書き言葉と読み言葉から生まれてきたのである。

本書の前半では、人類がいかにしてこの「書き言葉」「読み言葉」を獲得していったかが説明される。驚いたのは、初めて西欧圏に文章が出現した時は単語の切れ目がなかったということ。よく考えれば驚くようなことじゃないが、英語の文章で切れ目がなかったらほとんど暗号だろう。どれほど読みづらいことか。そしてそのうち現在のスタイルの書き言葉が発達し、それによって人間はロジカル・シンキングが可能になり、思索することが可能になった。他人と、知識や思索を共有することが可能になったのである。

更に印刷技術の出現、書物というインターフェースの出現。当然ながら、紙を重ねて片側で綴じる「本」も、試行錯誤のあげく出現した発明なのである。これがどれほど偉大な発明だったかは、到底言葉に尽くせない。そしてグーテンベルグの印刷技術の衝撃。これによってそれまでエリート層だけのものだった知識が爆発的に広がり、人類は現在の人類になった。つまり人類は書かれた言葉を読むことによって文明を築いてきたわけで、言葉の読み方が人類の思考を支配し、私達の脳の機能を作り上げてきたと言っても過言ではない。

それとネットと一体何の関係があるの、と不思議に思う人はまだネット依存度が低い人か、逆に依存度が高すぎて感覚が麻痺しているかのどっちかだろう。本書の著者は最近、長い読書や、集中や、深い思索ができなくなっていると感じているそうだ。友人達にもそういう人が多いという。実はこれは統計的事実であり、さまざまなアンケートでも同じ現象が確認されている。著者の友人のある大学教授は、今や文学部のほとんどの学生が『戦争と平和』を読み通せないと言う。

この現象はネットやスマホの普及と軌を一にしている。なぜこんなことが起きるのか。ネットのテキストの特徴は断片化され、相互リンクされていることである。従ってネットは読み手に断片情報の間をできるだけすばやく移動することを促す。できるだけ多くのリンクをクリックし、一つのページにとどまることなく次々と移動していくように、読者を動機づける。しかし当然ながら、これは集中を妨げる。ネットは集中や熟慮を嫌うのである。それに馴らされた結果、我々は集中力をなくしていく。

脳の可塑性の話も出て来る。多くの人々は脳をコンピューターのようなものと思っているかも知れないが、実は違う。脳はプログラム済みの完成品ではなく、どんどん変化していく有機的な存在だ。私達が想像する以上に大きな可塑性をもっていて、現実に適応して変化する。だから私達の習慣や行動が変わると、脳は物理的生理的に変化してしまう。

つまり私達の集中力、思索力、知識の吸収力は、本と印刷技術の世界に脳が適応した結果なのである。一冊の本を読む時とネットサーフィンする時では、同じ「読む」行為でもまるで違う。もしも本がネットにすっかり置き換わってしまったら、人間の集中力、一つの思索を掘り下げる能力、熟考する力は衰退し、やがて失われてしまうだろう。それによって人間は、本と印刷技術が発明される以前の状態に戻っていくかも知れない。

これが本書が発する警告である。著者は本書を書くにあたってキューブリックのSF映画『2001年宇宙の旅』に登場するコンピューターHALの描写で始め、HALの描写で終えている。宇宙船の乗組員を殺そうとしたHALはボーマン船長にメモリを抜かれ、「私はこわい、こわい」といいながら次第に知能を失っていく。最後は何も分からなくなり、幼児のように、誰かから聞いた歌を歌うだけになる。著者はこれを、未来の人間のメタファーとしている。

本書がどれぐらい恐ろしい、シリアスな問題提起の本か分かっていただけただろうか。その他にもネットや最新のテクノロジーに関する考察が多く含まれていて、たとえばGoogleが構想しているすべての本の電子データ化。著者ニコラス・カーによれば、もしこれが実現したらそれはもう本ではなくなる。スニペットの集合体、データの総合体となる。単にアクセスが簡単になるから便利というだけでなく、読み方そのものが変わってしまう。それはもう、首尾一貫した「読み」によって思索と洞察を促すものではなくなるだろう。

著者はGoogleについてかなり批判的で、創業者ラリー・ペイジの人工知能についての発言(人口知能によって人間の脳を補助する、あるいは置き換えることで人間はよりよくなる)を痛烈に批判し、彼らが持っている人間精神についての偏狭なイメージが大問題だとしている。つまり彼らは人間の脳や精神をコンピューターのアルゴリズムと同じようなものだと考えているが、実際はまるで違う、と彼は言う。

それからまた、最近の学生や若い知識層では、記憶は便利で正確なコンピュータに任せてしまった方がいい、という考えが広まりつつあるという。Googleやストレージ装置からどんなデータでもすぐ引っ張り出せるのだから記憶するなど無駄だし、記憶をコンピュータに任せることで人間の脳はよりクリエイティヴな活動に専念できる、というわけだが、著者によればこれは大間違いである。人間の記憶は単なるデータ保管ではない。記憶は短期記憶が長期記憶に変化することで最終的に定着するが、長期記憶が生成されるプロセスはきわめて複雑で、それは単なるデータの保管ではなく、記憶の再編成に相当する。そして長期記憶は、人間のスキルや能力の獲得に深く関与している。記憶とは、たとえ同じデータをもとにしていても個々の人間固有に形成されるもので、つまり、限りなく個人の思考力や洞察力に関係している。それをコンピューターにアウトソースしてしまうと、人間はどうなるか。

そもそも、人間の脳はハードディスクやストレージ装置とは違って「ここまででいっぱい」にはならない。記憶できる量には限界がなく、原理的に無限なのであり、人間の脳をコンピュータのアナロジーで考えるのは危険だと著者は主張する。

その他にも、ほんの少しでも自然に触れると人間の集中力は回復するという実験の話などあって、とても啓発的だ。が、この本を読むと正直、現在のコンピュータ技術依存、スマホ依存がこのまま続くと人間社会はどうなるのかと、とても心配になる。ハイデガーはかつて、思考には計算的思考と瞑想的思考の二種類あると考えた。そして機械的な計算的思考に対し、瞑想的思考こそ人間の本質である、とした。

しかし同時に、ハイデガーはこのようにも語っている。やがて計算的思考が唯一の思考となり、人間の本質である瞑想的思考は失われてしまうかも知れない、と。

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