『春の祭典』 アレホ・カルペンティエール   ☆☆☆★

本書はカルペンティエールの最後から二番目の長編小説である。が、実は最後の長編『ハープと影』の方が先に出来上がっていたが、著者の思惑によって順番が入れ替えられたという。本書の方を先に発表したいという意向だったそうだが、そのあたりの事情は本書の訳者あとがきに詳しい。

また本書はカルペンティエール自身によって「政治的な小説」と称され、訳者もあとがきの中で「一大政治小説」と呼んでいるぐらい、政治と密接に関係した小説である。その意味は訳者が詳しく解説しているが、どういうことかというと、まず1958年のキューバ革命はラテンアメリカ文学者たちに一大興奮を巻き起こした事件であり、多くの文学者がこれについて書いたけれども、カルペンティエールはこれまでキューバ革命について書いた作品がなかった。そしてそのことを批判されてもいたのだが、そのカルペンティエールがようやくキューバ革命を題材に書いたのが本書だった。が、時間がたったせいでさまざまに批判もされているキューバ革命の描き方がストレートな賛美、肯定とも取れるものであったため、そのことについてもまた一部の人々から批判されたらしい。

面倒なことだ。私は小説の政治的メッセージにはあまり関心がないし、キューバ革命に関する知識もないので気にならなかったが、訳者はこのことについて詳しく解説し、いってみれば本書の擁護論を熱心に語っている。いわく、確かに本書の二人の主人公エンリケとベラは革命への中立的立場から出発し、最後にはキューバ革命バンザイと叫ぶに至る。だから一見キューバ革命賛美に見えるが、ことはそう単純ではない。

まず、二人のキューバ革命に関わる行動は、前もってジャン・クロード(途中で死んでしまうベラの恋人)とエンリケが交わす戦争小説批判によって相対化されている。つまり、彼らが批判する戦争小説の紋切り型が本書の戦争小説的な部分にそのまま当てはまるのであって、本書後半のキューバ革命部分は、ストレートなメッセージというよりアイロニカルな描き方がされている。だからそれを真に受けて、「カルペンティエールはキューバ革命を賛美している」と受け取るのは間違っている(と訳者は言う)。次に、エンリケとベラはキューバ革命のいわば心情的賛同者であって、革命のイデオロギー部分は後付けで勉強している。つまり、二人は決して革命のイデオロギーに賛同したわけではない。そして三つ目、カルペンティエールが本書を書いた時代には、小説というものの核心がすでにストーリーではなくなっていた。従って、本書のストーリーをそのままカルペンティエールの思想と考えるのは早計である。

まあ大体、そんなようなことが書いてある。キューバ革命の思想的背景に関心がある人は、そのあたりに注意しながら読むといいかも知れない。

が、あんまりそういう読み方をしなかった私にとって、本書は男と女が激動の時代に翻弄されながらも生き抜いていく一種の大河ドラマであり、一大ロマン小説だった。あらすじをものすごくざっくり紹介すると、まずキューバ人の大金持ちの甥エンリケと、ロシア人バレリーナのベラがスペインで出会う。エンリケはキューバの家を飛び出してパリに行き、恋人アダの失踪をきっかけにスペイン内乱に身を投じたのだった。一方ベラは恋人のジャン・クロードを追ってスペインに来てエンリケと出会い、ジャン・クロードの死後エンリケと結ばれる。二人は結婚してエンリケの母国キューバに戻り、エンリケは建築家に、ベラはバレリーナを諦めてバレエ学校の教師になる。

ベラはバレエ学校でストラヴィンスキー「春の祭典」をテーマにした舞踏を創作し、パリで発表しようと計画するが、色々あった後、政府の無慈悲な弾圧で舞踏団はなくなってしまう。そして同じ頃エンリケの不倫を知り、一人家を飛び出して身を隠す。一方エンリケは長いことテレサと不倫関係を続けていたが今度はキューバ革命に参加し、負傷して家に戻ってくる。ベラも戻ってきて負傷したエンリケを看護し、キューバ革命の成功を喜ぶ民衆と一緒になって、革命バンザイと叫ぶ。

まあそんなわけで、エンリケとベラという一組の男女の絆の物語として読んでも、内戦や革命という政治状況がストーリーの主要な背景となっていることは間違いない。初期に書かれた『この世の王国』『失われた足跡』のようなマジック・リアリズム要素はまったくない。私はやはりカルペンティエールの小説には壮麗なるマジック・リアリズムを期待してしまうので、その意味では、この長い小説を読みながら最後まで乗れないままだった。日本の読者でそういう方は多いのではないだろうか。

ただ革命や戦争ばかりではなく、本書には音楽、舞踏、文学、絵画などさまざまな芸術が色んな形で登場し、芸術というものが政治や革命と並ぶ重要テーマになっている。文学だけでなく音楽にも造詣が深いカルペンティエールらしく、ストーリー全体に一種の芸術論が盛り込まれているといっても過言ではない。ピカソ、ダリ、マルセル・デュシャン、デューク・エリントンなどが実名で登場するし、シュルレアリスムに関する考察なども出て来る。そういう部分はまるでカルペンティエールのエッセイのようだ。作者は本書で政治的テーマを扱うとともに、芸術に関する見識や思い入れもたっぷりと盛り込んで書いたと思われる。

文体はカルペンティエール後期の特徴である曲がりくねった饒舌体なので、読むのに集中力を要する。それにエンタメ小説のように状況説明が親切ではないし、文学的なテクニックとしてわざとぼかし、読者を惑わせるような書き方をしているところもある。少なくとも私は、ぼうっと読んでいると内容が頭に入ってこなかった。

主人公たちがくぐり抜けるさまざまな内乱や革命、特に終盤のキューバ革命の政治的事情に最後まで乗れなかったため、私は本書の核心を十分に理解したとは言えないだろう。私の本書の愉しみ方は、各章、各場面に盛り込まれた抒情性やロマンの香りを味わうということに尽きた。特に物語の冒頭、エンリケとアダの出会いと別離を描いた部分の濃密なロマン性と、美しく陰影に満ちたパリの描写は陶然となるほどに蠱惑的だった。アダは冒頭で失踪し、二度と登場しない。おそらくナチスに殺されたのだろうが、ほんの一瞬しか登場しない彼女の面影は、本書読了後も私の中から消えていかなかった。

そして後半になると、キューバやマイアミの描写もまた印象的だった。特に私自身、前に一度訪れてすっかり魅了されたマイアミの街が舞台になっている部分は読んでいて愉しかった。こんな風に、私にとって本書は、カルペンティエールの濃密な文章から匂い立つロマン性こそが最大の魅力であり、またこれほどの重厚なロマンを久しぶりに読んだなと思わせられた、格調高い文芸作品だった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。