『約束のない絆』 パスカル・キニャール   ☆☆☆☆☆

しばらく前に購入してまだ読んでいなかったパスカル・キニャールの小説を読了。キニャールはエッセイとも小説ともつかない作品をたくさん書く人なので、本書のような純然たる小説は貴重だ。全体の印象としてはなんとなく『アマリアの別荘』に似ている。現代のフランスが舞台で、女性が主人公で、彼女が家族や仕事や世間のしがらみから徐々に逃走していく物語。加えて、あとがきでも指摘されている通り本書のヒロイン、クレールは故郷に帰るという行動によって特徴づけられる。故郷に帰るはこの場合、自然に還ると言い替えても同じことだろう。

というメインのプロットに、さまざまなパズルのピースが組み合わさってこの物語を形作っているが、重要なピースの一つ目としてはまず、クレールとシモンの不倫愛。もちろんキニャールなのでいわゆる不倫モノ恋愛小説とはまるで違うけれども、『アマリアの別荘』にも不倫愛が登場していたところを見ると、キニャールお気に入りのモチーフの一つなのかも知れない。クレールとシモンの愛は序盤から鮮烈な形で提示され、途中で破綻した後も重要なテーマとして繰り返し戻ってくる。キニャールの小説で不倫愛が扱われる場合、その人間心理の苦しさや辛さというよりも、社会の約束事の外にある何か原初的な愛のかたちを感じさせるものとして登場するようだ。

二つ目の重要なピースは、クレアの弟ポールの存在である。彼は唯一の肉親としてこの物語を通してクレアを支え続けるが、といってもこの二人は互いを十分に理解し合っているわけではない。それぞれ異なる世界と人生観を持ち、対立する部分もあるのだが、それでも互いに支え合う。この単純ではない肉親の関係性がキニャールらしい。それからポールは同性愛者でジャンという司祭の恋人がいるが、この二人の物語も、メインであるクレアの物語の印象的な対旋律として機能している。

ちなみにタイトルの「約束のない絆」とは、クレールとポールの絆をジャンが称したもの。しかしキニャールのこの物語の中では更に意味が広がって、私達と自然の絆、私達と故郷の絆、などの意味にも取れる。

キニャールの文体はますます簡潔、直截となり、文飾や衒いや、いわゆる小説のテクニックみたいなものからはるかに遠ざかっている印象を受ける。読者が読みやすいようにとか、ストーリーに興味を引きつけておくようにとか、まるで考えていないのではないだろうか。自分が語りたいことしか語らない、書きたいことしか書かない。それ以外のことはみんな省略。こんな印象を与えるキニャールの語りは、もはや通常の小説の約束事から完全に解放されている、と言っていいかも知れない。

そしてその独特の語りが、めまいを起こすほどのスピード感を読者にもたらし、その中に唐突に挟み込まれる詩的なレトリックを際立たせる。ちなみにキニャールの場合、詩的なレトリックといってもただ抒情的なだけでなく、哲学的なメタファーになっている場合が多い。だからただきれいで心地よいイメージを喚起するのではなく、はっとするような気づきを読者に与える。

全体の構成について感じるのは、前半は神の如き全知の話者がクレールの物語を語っていくスタイルだが、後半になると登場人物が話者となって叙述する章が増えてくる。その登場人物も決まった人物でなく、色々なので、つまり多視点的叙述ということになる。するとクレールの内面を描写することはできず外から見た行動だけが語られることになるので、彼女の心理や感情は分からなくなり、クレールというヒロインがよりミステリアスな存在になる。読者はまるで、前半あれほど身近に感じられた彼女がどんどん遠ざかっていくように感じるだろう。

それから物語のトーンも微妙に変化していく。前半のプロットは大体クレールがピアノ教師のラドン先生と一緒に暮らすようになり、養女となり、やがてラドン先生の財産や屋敷を相続することであり、あるいはシモンと逢引して愛し合うことである。従って基本的に前半は自由と幸福の感覚に満ちているが、後半になると死と別離の影が濃くなっていく。

ただし、さっき書いたようにキニャールは読者へのサービス精神など持ち合わせておらず、話を面白くしようとか分かりやすくしようとか、あるいはこのあたりで盛り上げようとかまったく考えていないようなぶっきらぼうな書き方をしているので、この小説にウェルメイドなストーリーの面白さを求めると戸惑うことになるだろう。何度も書くようだが、この小説は普通の小説、特にエンタメ系の小説とはまったく違う書かれ方をしている。

言葉を変えると、キニャールは小説を書く時にストーリーや状況の説明をするのではなく、人生の謎やポエジーをそのまま、一切の説明や解釈抜きで原石のまま呈示している印象を受ける。読者はそれを受け取り、自分で噛み砕かなければならない。なかなか集中力を必要とするが、ただそんな中に、唐突にきらめくセンテンスやフレーズが現れて読者に憑依することもある。

ちなみに本書の中でいちばん私の心に残ったのは、人生とは何かの思い出、というフレーズだった。

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