『バロウズという男』 ウィリアム・バロウズ   ☆☆☆

かつてペヨトルエ房から出たバロウズのエッセイ集を再読。この本もいまや絶版らしいが、まあ一般の人々にあまり需要はないだろう。私もこの本を引っ張り出したのは十年以上ぶりだ。小説ではなくエッセイというのが珍重すべきところだが、やっぱりバロウズだなと思うところもあれば意外とまともだと感じるところもある。訳者は山形浩生氏。あとがきで、本書を読んでも新たな知識が得られることもバロウズに理解が深まることもなく、ただバロウズがこれまで小説で書いてきたトンデモ理論の数々がネタではなく、実は真剣だった、と分かることに唯一の意味があると書いている。どこまで本気で言っているか分からないが、まあ確かにそういう感じはある。

それから山形浩生氏はバロウズは色んなことに一家言あって何でも論じるタイプの作家ではなく、ごく狭い範囲のトピックにディープなこだわりを持ち、それ以外にはまったく無関心な作家なので、何かお題を与えられた時どう得意なテーマに落とし込むかが勝負であり、それがうまくいけば面白くなり、うまくいかなければつまらなくなると書いている。そういう意味では、本書中いちばん頻出するトピックはおそらくヘミングウェイだろう。ヘミングウェイへの言及が異常に多い。

が、必ずしもヘミングウェイ全部好きというわけでもなさそうだ。「キリマンジャロの雪」は絶賛し、最後近くの「白!白!白!」というセリフなどは何度も引用している一方で、あの名作短篇「殺し屋」についてはセリフが様式化されていると批判している。セリフの様式化についてはかなりしつこく何度も書いていて、ヘミングウェイのセリフはヘミングウェイの登場人物にしか喋れないと言う。この指摘はなかなか面白かった。あと、「キリマンジャロの雪」の映画版についてはもうボロクソにこき下ろしていて、あの映画にハッピーエンドを許可したことでヘミングウェイは魂を売ったとまで激しく非難している。

フィッツジェラルドもお気に入りの作家らしく、『グレート・ギャツビー』からの引用も何度も出て来る。また作家にとって生きたキャラクターを創造することが大事だと主張する文章の中で、ギャツビーやデイジーは血が通ったキャラだと手放しで賞賛している。その一方で、ボロカスにこきおろしている作家がモームである。いわく、自分の登場人物に対して責任をとっていない、愛情を注いでいない、だから読んでも名前さえ覚えられない、と糞みそである。とにかくこの爺さん、言葉に遠慮というものがない。

興味深いのがベケットについて書いた文章で、バロウズはベケットが好きではないようだが否定的でもなく、要するに自分とはまったく違うタイプの作家だと思っているらしい。一度ベケットに会いに行った時の様子も書いているが、とても礼儀正しく応対してくれたものの、私達に対してまったく何の興味も持っていないことが明らかだった、みたいに書いている。またベケットの書くものについては、そこには時間がなく、場所もない、と不思議そうに書いている。ベケットはプルーストと対極の作家、というのがバロウズの評で、ちなみに自分はプルースト型の作家であり、具体的な人物や場所にこそ関心がある、と書いている。

他にもコンラッドやジュネの名前が出て来る。このあたりはなんとなく分かる気がするが、フィッツジェラルドをレスペクトしているのはちょっと意外だった。今でこそフィッツジェラルドは再評価されているが、以前はヘミングウェイに比べるとワンランク落ちる二流作家であり、甘ったるい風俗小説の書き手みたいな言われ方をしていたからだ。しかし考えてみるとフィッツジェラルドもアル中で身を滅ぼす人間の業や楽園喪失を描き続けた作家なので、ジャンキー作家のバロウズに通じるものがあるのかも知れない。

ジュネについて言及した章では死を恐れないことが作家の条件だと、いつになく真剣なトーンで書いている。つまり作家とはきわめて危険な職業であり、実際に死ぬ危険性や人生を棒に振る危険性がある。そしてその勇気を持った作家として、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、カフカ、コンラッドなどを挙げている。

しかしバロウズは麻薬ばっかり吸ってブラブラしている不良老人みたいなイメージがあるが、こうやってエッセーを読むと、当然のことながら旺盛な読書家であることがよく分かる。この人プルーストなんて読むんだな、とつい思ってしまう。笑ったのは大学に呼ばれて講義した時のエピソード。学生はみんな失望したようだ、なぜなら自分が背広を着て行ったからで、みんなは私が全裸で登場すると思っていたようだ、と書いている。半分は冗談だろうが、多少本音も混じっているみたいでおかしい。確かにウィリアム・バロウズといえばとんでもない奇人がやって来るだろう、と学生が期待するのも分かる。

それからバロウズのエッセーの特徴は、語りの中に突然映画のワンシーンみたいにキャラとセリフが登場するところである。言っていることの例や傍証として出て来るのだが、これがまたバロウズらしくておかしい。まともな文章の中に急にカットアップが割り込んできたりもする。バロウズの小説を知らない人が読んだらびっくりするだろう。印刷ミスだと思うかも知れない。

はっきり言って、いわゆるエッセイ本としては評価が難しい本だ。訳者が言う通り、この本に蘊蓄や人生の学びみたいなものはない。しかしバロウズが他の誰とも違う文章を書き、他の誰とも違う感性を発明したことは、本書からも十分に伝わってくる。

“バロウズという男” への2件のフィードバック

  1. WSバロウズ。
    バブル末期辺りに何故か大量に翻訳が出ましたね。
    あの縦長のミルキィ・イソべ装幀のペヨトル工房の本全部持ってます。
    バロウズの弟子?キャシー・アッカーの翻訳も予定にラインアップされてましたがペヨトルから出たのは『アホダラ帝国』のみでした。
    「カットアップ三部作」の『ノヴァ急報』が最後で『爆発した切符』は未刊、河出書房新社からの文庫も『ソフト・マシーン』で止まってるし。
    先頃急にアッカーの『血みどろ臓物ハイスクール』が文庫で出たりしてるので河出書房文庫からバロウズの翻訳出してくれるのを期待してるのですが(・∀・)

  2. ペヨトル工房の本全部お持ちとはすごいですね。カットアップ三部作は私はとても読めませんでした。私はバロウズの短篇集「Interzone」の翻訳を出して欲しいです。

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