『片隅の人たち』 常盤新平   ☆☆☆☆

常盤新平といえばどうしてもアーウィン・ショーのイメージが強くて、昔うちの本棚に並んでいた『夏服を着た女たち』のハードカバーを思い出してしまうが、ちょっと調べると実はアシモフの『裸の太陽』やクリスティーの『青列車の謎』も訳している人なのだった。その常盤新平がまだ翻訳で身を立てようともがいていた頃の自伝的小説が、この『片隅の人たち』である。

時は1950年代。もはや半世紀以上も前の時代なので、本書に出て来る東京は今とはかなり雰囲気が違う。それはまるで異国のようであり、小説の中だけに存在する街のようでもあり、セピア色に霞んだベル・エポックの蜃気楼のようでもある。主人公の「僕」、つまり常盤新平は高田馬場のアパートで、ドサ回りばかりしている新劇の女優・沙知と一緒に貧乏暮らしをしながら、いつか翻訳で身を立てることを夢見ている。といっても夢をかなえるぞ的な明朗闊達さはなく、割に合わない下訳(つまり他の翻訳者の手伝い)ばかりしながら、こんなことでいつかどうにかなるのだろうかという不安と、翻訳なんてまともな職業じゃないなという諦念と、自分は世の中から外れて生きているという引け目を抱えながら日々を過ごしている。

といっても、だからといって昔の日本の青春映画みたいに刹那的だったり荒むわけでもなく、古本屋で書物を漁るひとときを無上の悦びとしつつ、沙知だけを心の拠り所としながら、貧乏を貧乏とも思わない太平楽なところも持ち合わせている。そんな彼の地味で穏やかな生活を彩るのは、当時彼と交遊があった翻訳者達である。有名どころもいれば、「僕」と似たりよったりの駆け出しもいる。が、共通するのはその変人ぶりだ。とにかく変人揃いの翻訳者達が次々と登場し、その人となりやエピソードが紹介される。本書の主な読みどころはそこである。

翻訳者と言っても、一部の例外を除きみんな貧乏だ。そこそこ名前が売れている人でもやっぱり貧乏で、みんなその中でやりくりして好きな翻訳をやっている。それだけじゃ食えなくてアルバイトしている人も当然いる。そして、なんだかうらぶれた場所に出入りしている。もちろん「僕」もその中の一人だ。

ダンディな人もいれば、むさくるしい人もみすぼらしい人もいる。顔は彫りが深くてかっこいいのに靴下が異常に臭い人もいる(沙知が嫌がり「僕」のアパートに出入禁止になる)。出版社から「家を買うので」と前借りした金を妻との温泉巡りで使い果たす人もいれば、いつも不機嫌なこわい顔のくせに美人とつきあっている人もいる。「僕」に翻訳者の心得を教えてくれる厳しいプロもいれば、女に逃げられてヤケクソになっている奴もいる。夫婦者なのに「僕」を居候させて五右衛門風呂を勧めてくる人もいる。

そんな翻訳者達の肖像やエピソードをへえーと言いながら楽しく読むうちに、「僕」と沙知の二人の物語が第二の読みどころであることが分かってくる。沙知はドサ回りが多い女優なので留守がちだが、「僕」と沙知の関係はまったく盤石だ。信頼関係とかそんな肩肘張ったものじゃなく、二人はごく自然に伴侶の絆で結ばれている。翻訳者として先の見通しも立たない「僕」は、こんなことしてていいのかと悩みながら生きているが、「でも、僕には沙知がいる」と思うことで明日に立ち向かう勇気が湧いてくる。「僕」は沙知のことを、そんな風に思いながら生きているのだ。派手な恋愛エピソードこそないが、この二人のさりげない絆の物語はとても感動的だと思う。

この小説の中で、「僕」と沙知は同棲している恋人同士から、やがて結婚して夫婦となり、引っ越しをし、子供が生まれて父と母になり、と変遷していく。母親になった沙知は女優を止める。沙知の出産の後、「僕」が自分は父親になったんだと実感する場面はこの小説のハイライトである。

他のエピソードとしては下訳をしていた頃の焦燥感や、先輩翻訳者に怒られたことや褒められたこと、チキンライスをおごってもらったこと、アパートでクジラの肉を食べたこと、行きつけの喫茶店の美人姉妹がろくでもない男とつきあっていたこと、などが出て来る。まあ大体のところはそんな、ゆるいムードの小説だ。

「僕」の語り口は淡々としていて、ちょっとユーモラスだけど読者を笑せてやろうなんてスケベ心はなく、誠実で、素直で、まっとうだ。奇をてらったところなど微塵もないが、読んでいるうちに多くの読者はこの文章の魅力に搦めとられるに違いない。文章だけでなく、「僕」の人柄もいい。沙知との関係はもちろんのこと、気難しい変人翻訳者とつきあう時も感心するほど寛容だし、フェアだ。エピソードはさりげないものばかりだが、読んでいるうちにしみじみと味が出て来る。

変わり者の翻訳者達が醸し出すペーソス、彼らと交流する楽しさや物悲しさ、「僕」と沙知の仲睦まじさ、50年代東京の(喫茶店や洋書店や銭湯などの)風物詩が、本書を構成する主な要素と言っていいだろう。加えて、「僕」の素直で繊細でフェアな感性と、本や翻訳に対する真摯な思い。それらが一本の芯となって、本書全体を貫いている。

ところで本書の「僕」は大好きなアーウィン・ショーにはまだまだ歯が立たず、ミステリの翻訳を多く手掛けているが、ミステリの中ではチャンドラーやハメットなどハードボイルド系が好きで、カーやクリスティーなどの本格物は肌に合わないそうだ。そういうコメントがあちこちで出て来る。そして著者はそれを、自分の中にある上流階級の人々への距離感だと分析している。つまりクリスティーの小説には避暑地で優雅なバカンスを楽しむ上流階級の人々が多く登場するし、主人公のポアロもそんな上流階級の一人だが、ハードボイルド小説の私立探偵たちは皆孤独で貧乏で、「僕」や翻訳者達の同類だ。だから親近感を感じられる、という。

なるほど、と思った。つまりチャンドラーやハメットの主人公たちは、やっぱり「片隅の人たち」の一員なのだな、と。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。