『火星年代記』 レイ・ブラッドベリ   ☆☆☆☆

本書はブラッドベリが1960年代に発表したSFの古典で、私が子供の頃、名作SFと言えば必ず名前が上がった金字塔的作品である。あとがきでは、普段めったにそんなことをしなかった星新一が、日記の中に本書のタイトルを挙げて賞賛したというエピソードが紹介されている。

中学生の頃SFにハマった私も当時これを読んだが、実のところ大して感動しなかった。アシモフの『銀河帝国興亡史』やアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』では大感動した私だったが、これはピンと来なかったのである。「え、こんなもん?」とむしろ肩透かしな気分を味わった。ブラッドベリなのでいつものように科学技術描写は皆無だし、クラークの壮大なビジョンもない、アシモフの歴史観もミステリ風味もない。だからそのまま忘れてしまった。

そして最近、映画『マイ・ブックショップ』の中でビル・ナイが『火星年代記』を読んでいるのを観てブラッドベリへの関心が蘇ったのは『万華鏡』のレビューで書いた通り。で、『万華鏡』を読んでブラッドベリの良さを思い出し、この『火星年代記』も再読してみたわけだが、今回は昔分からなかった良さを感じ取ることができたように思う。

本書はオムニバム形式になっていて、火星と、火星移住ができるようになった時代の地球を舞台にした短篇のコレクションである。共通する主人公や全体を通したミッションなどはない。いってみれば小粒な短篇の集合体で、だからクラークやアシモフの長編みたいなどっしりした重量感を期待してはいけない。

とはいってもタイトルに「年代記」とある通り、時代に沿って火星と地球の状況が変化していく。おおざっぱな流れとしては、まず火星人達が住む火星に徐々に地球人がやってくるようになる。火星人が滅びるとともに一気に移民が加速し、最初は男たちが、次に女たちが、神父やキリスト教徒が、老人たちがやってくる。そして火星の移民社会が栄える。一方で地球では状況が悪化し、戦争が起きる。すると火星の移民たちも郷愁にかられて地球に戻り、人類は核戦争で滅亡する。火星も無人となるが、残されたごく少数の地球人たちが火星で新しい未来を築いていくことが暗示されて、終わり。

こういう歴史の流れを一大叙事詩的にではなく、それぞれの時代を舞台にした独立した、短いエピソードの連なりで描いたもの、それが本書『火星年代記』である。短篇の雰囲気はかなりバラエティに富んでおり、サスペンスフルなエピソードもあればユーモラスなエピソードもあり、アイロニカルなエピソード、そしてブラッドベリらしい抒情的なエピソードもある。共通の登場人物もテーマもないので、バラエティに富んでいるかわりに全体の統一感には欠けると言えるだろう。

しかし本書が名作の名を欲しいままにする最大の理由は、やはりブラッドベリらしい抒情性と情感の豊かさにある。ハードな科学技術描写はないし、宇宙規模のミステリもない、クラークのスケール感もアシモフの巧みなストーリーテリングもない代わりに、ここには詩人の感性がある。ナイーブな、読者の心の奥に埋もれた郷愁や哀感を掻き立てるデリカシーがあるのだ。

ところで私も今回再読するまで知らなかったが、あとがきによれば、『火星年代記』の内容は何度か改訂されているらしい。つまり作者ブラッドベリによって収録エピソードが何度か追加削除されているという。最初の版に入っていた短篇のいくつかはなくなり、入っていなかった短篇のいくつかが挿入されている。だから今回私が買ったハヤカワ文庫版には「新版」とある。

が、当然ながらキーとなる短篇は変わっていない。地球人と火星人の最初の神秘的な遭遇を描く「イラ」、他文明をレスペクトせず破壊と略奪を尽くす地球人への怒りに満ちた「月は今でも明るいが」、時を超えて地球人と火星人が出会う「夜の邂逅」、失った大切な人への思いを描く「火星の人」、そして滅びゆく世界と新しい世界の誕生を描く「長の年月」「優しく雨ぞ降りしきる」「百万年ピクニック」、の三連作などがそうだ。

前半に収録されている「地球の人々」「第三探検隊」あたりの数篇は、地球から火星へ派遣された探検隊が火星人に思わぬ方法で滅ぼされる、ちょっとアイロニックかつサスペンスフルなエピソードで、どこか初期のディックを思わせるような雰囲気がある。「月は今でも明るいが」はメッセージ色が濃い作品で、「夜の邂逅」「火星の人」ではブラッドベリらしい抒情性が味わえる。

そしてラストを締めくくる、「長の年月」「優しく雨ぞ降りしきる」「百万年ピクニック」の圧倒的三連発。本書が名作となったのはこの三部作ゆえだと断言したい。このうち「優しく雨ぞ降りしきる」は『万華鏡』にも収録されていて、ブラッドベリの独自性と真価を示す短篇の一つだけれども、この三つが連なった時の、そして『火星年代記』のそれまでのさまざまなエピソードの果てにこれが現れた時の感動は、やはり本書でなければ味わえない。火星の移民社会も滅び、地球も滅びてしまうが、生き残ったわずかな人々が火星で生きていくことを決意する。「百万年ピクニック」のラストシーンの余韻は、さすがSFの抒情詩人といわれるブラッドベリならではだ。

これはサイバーパンク以前のSFなので、ネットも仮想空間もAIも出てこない。最近のSFファンが読むと時代を感じるかも知れないが、こういう古典的名作を読んで古き良き時代の香りに触れるのも、また一興というものでしょう。

“火星年代記” への2件のフィードバック

  1. 私も40才すぎで再読したときのほうが感動しました。私事で恐縮ですが、もう眠ったきりのオフクロの病室で手持ち無沙汰のため、近くのツタヤで他にめぼしいものもなく買った「火星年代記」。読書環境にはうってつけですぐに没頭しました。
    静かで繊細ながら力強い芯も感じ、非常に美しい物語だと思いました。
    ちょっとくたびれた年齢や状況で読むほうがいいのでしょうか。星新一が読んだタイミングもそんな気がします。
    筒井康隆のエッセイに、感激した星新一が東京中の書店をまわり「火星年代記」を買い漁ったという話を書いています。
    「誰にも読ませたくなかったのだそうである。ごくふつうの感激であれば公けに激賞し、読め読めとひとにすすめているところである。」
    にわかには信じがたいですがひとつの作品にこれだけ感激できるのは羨ましい限りです。
    長々とすみません。

  2. そういえば、そんなことを筒井康隆が書いていましたね。忘れていました。ほとんど常軌を逸した執着ぶりですね。さすがにそこまでは思いませんが、私も最近読んで、しみじみいい小説だなあと感じました。分かりやすいロマンティシズムなのかも知れませんが、虚飾や気取りとは無縁の、誰でも心の中に持っている童心や驚きを素直に表現したような、ほっとするものを感じます。

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