『事件』 大岡昇平   ☆☆☆☆

映画はDVDも所有しているが、原作を読んだのは今回初めて。大岡昇平は「サッコとヴァンゼッティ」など面白い裁判ものを書いているので、この長編も傑作なのではないかと期待して読んだ。

しかしこの事件、いわゆる法廷ミステリの視点で見ると相当地味である。映画を観た時も思ったが、ワクワクするミステリーなどあまりない。というか皆無と言っていい。少年が年上の女を刺殺したが、果たして最初から殺す気だったのか、というただそれだけの裁判である。犯人は分かっている、本人も犯行を認めている。被害者は少年の恋人の姉で、少年と妹の同棲、出産に反対していた。その上、死んだ姉も少年と関係があった疑いがある。

もちろん、殺意があったかどうかは重要だ、だから裁判で争点になる。が、法廷ミステリとしてはあまりにも地味だ。だから映画は法廷ミステリというより青春映画になっていた。少年と姉妹の愛憎関係がメインで、製作者の関心は少年をめぐる姉と妹の思いや確執へと向いていた。

ではこの小説はどうか、というと、完全に裁判小説である。人間模様はあくまで裁判を通して浮かび上がってくる。映画に濃厚だったウェットな青春小説の感触はない。が、通常の法廷ミステリともまた大きく異なっている。小説というよりは、まるでドキュメンタリーのようだ。著者の言葉によれば、本書執筆のため裁判を取材したところ、実際の裁判がいわゆる法廷小説に描かれるものとあまりに違うことに驚いた。そして執筆の目的が実際の裁判を正確に、リアリスティックに伝えることにシフトしていったという。

だから事件の題材が地味なのも意図されたものだ。実際の裁判ではこういうことが主要な争点になるのだ、ということなのである。そして、殺意があったかなかったか、などという一見地味で細かいところにこそ、実は裁判というものの難しさと面白さがあり、つまりは本物の裁判の醍醐味がある。本書が目指すものはそこである。

当然、いわゆる法廷ミステリとは雰囲気が大きく違ってくる。事件の背景の説明はまるで警察の調書のようだし、裁判が始まるとまず裁判官、検察官、弁護士の正確な役割や、それぞれの関係から、裁判の進め方、手続きの意味や背景、裁判官の考え方などについて、緻密な解説が入る。裁判官が三人いる理由やそれぞれの役割も説明されるし、「裁判官」と「判事」の言葉の意味の違いにも注釈がつく。小説というより、裁判という制度の解説書のようですらある。

地味な事件でこの雰囲気だと本当にアカデミックで、正直なところ、最初しばらくは退屈だった。裁判の勉強をしたいわけじゃなく面白い法廷ミステリを期待して読んでるわけだから、まあそうなってしまう。外れだったかな、とも思った。

が、もしあなたがそう感じたとしたら、しばらく我慢して読み続けることをおススメする。こんな地味で単純な事件でも、法廷での尋問、反対尋問の中で思いもよらない事実が判明し、それが裁判の流れを変えることがある。そしてそこにこそ、本物の裁判のスリルがあるはずだという、著者の目論見が次第に功を奏し始める。弁護士は何のためにこの証人を連れてきたか、何のために一連の質問をしているのか、そして何を証明しようとしているのか。ただ「殺意」について争うだけでも細かなテクニックが駆使され、細かな思案が張り巡らされる。そして読者は徐々に、その本物の裁判のスリルに気づいていく。

証人の反応、つまり動揺したり感情的になったり怯えたり、あるいは検察官や弁護士の思惑や駆け引きもきわめてリアリスティックだ。エンタメ的にデフォルメされたり誇張されているところはまったくない。そのせいか、私はこれを読んでいても映画に出演した俳優たち、つまり大竹しのぶや永島敏行や松坂慶子や渡瀬恒彦の顔はほとんど浮かんでこなかった。どこの誰とも知れない、市井の人々の風貌が思い浮かぶばかりである。そんなところもドキュメンタリーの感覚を強めている。

そんな小説なので、もしあなたが映画の青春小説的な抒情性を求めて本書を読むと幻滅する可能性がある。これはいわゆる法廷ミステリのような「作りもの」ではない、できる限り「本物」に近い裁判の醍醐味を伝えるために書かれた小説である。だから非常に硬質で、アカデミックで、感傷性や抒情性は意図的に抑えられている。意図的に物語性を抑え、正確性を重視してある。

本書最大の読みどころはやはり弁護士・菊池の尋問によって、当初の事件の様相がだんだんと変わってくるところだろう。犯人も分かっていて大体の犯行経緯も分かっている事件なのに、そうなるのである。人間がイメージし、想像力で補ってしまう部分がいかに大きいか、ということが分かる。そしてそれが判決に影響してしまう。「真実」というものがいかに難しいかを、この小説は教えてくれる。

最後にもう一つ、本書では裁判の仕組みや考え方を詳しく説明してあるが、欧米の裁判と日本のそれでは考え方もテクニックもかなり違うということが分かり、勉強になった。法廷ものというとすぐ弁護士が派手に演説をぶつ欧米の映画を思い浮かべるが、日本の裁判はまた違うらしい。やはり「本物」は奥が深い。

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