『男はつらいよ 私の寅さん』 山田洋次監督   ☆☆☆☆

所有するDVDで久しぶりに鑑賞した。これはシリーズ第12作目で、マドンナは岸恵子。まだまだ初期の作品だ。

本作は大きく二部構成になっていて、前半はとらや一同が九州旅行に出かけ、寅がひとり柴又で留守番するエピソード、後半は寅が女流画家のりつ子(岸恵子)に恋をするエピソードだけれども、見どころはなんといっても前半の留守番エピソードである。申し訳ないが、後半のりつ子さんエピソードはそれに比べればだいぶ落ちる。

が、これはマドンナりつ子さんのエピソードの出来が悪いというよりも、前半のエピソードが素晴らし過ぎるというべきだろう。これは要するに、いつもマドンナが登場する前に起きる、寅がとらやに巻き起こす騒動エピソードの一つ(寅がハワイ旅行をプレゼントするとか、赤ん坊を背負って帰ってくるとか、ルンペン老人を連れて来るとか)なのだけれども、この種のエピソードとしては間違いなくシリーズ中一、二を争う出来だ。

まず、さくらが日頃お世話になっているおいちゃん・おばちゃんに九州旅行をプレゼントし、おいちゃん・おばちゃんにさくら、博、満男を含めた全員で旅行を楽しむ準備を進めていると、出発の前日、急に寅が帰ってくる。皆が困って言い出せずにいると御前様の一言でバレ、例によって「なんでスッと言ってくれないんだ!」と寅が怒り出す。翌日、不穏な空気冷めやらぬままとらや一同は旅行に出発し、寅はふてくされて一人で留守番に残る。不運なタコ社長が寅の世話係となる。

おいちゃん、おばちゃんは九州観光をエンジョイしつつも、留守番している寅が気になってしかたがない。猿山で仲間外れになっている猿を見ては寅を思い出す始末。一方、寂しく留守番している寅は毎日夕方かかってくるはずの電話を待ち焦がれ、かかってくると遅いと文句を言い、切ろうとすると全員を電話に出せとゴネまくり、さくら達を閉口させる。しまいには「てめえ達には待つ身の辛さが分からないんだよ!」などと、お前が言うかというセリフまで飛び出す。

二日目はますます状況が悪化する。寅は皆が事故に遭ったに違いないと言い出し、安心させようとするタコ社長に絡み、外からかかってきた電話には不機嫌に対応する。夕方さくらからの電話でいきなり怒鳴り、おいちゃんと遠距離喧嘩を始める。寅の面倒くさい性格が大爆発である。あまりの面倒くささにおいちゃん、おばちゃんはもはや旅行が愉しめなくなり、予定を切り上げてすぐ帰ることになる。

これで急に機嫌が直った寅は、タコ社長・源ちゃんと一緒にみんなの帰宅歓迎準備を始める。ニコニコ顔で食事を準備し、風呂を焚き、いたわりの言葉まで考える。ところがいざみんなが帰ってくると、素直に振る舞えない。支度されている食卓を見てびっくりしたさくらが「お兄ちゃん、ありがとう」と声をかけても、背中を向けて黙って風呂の湯をかき混ぜるだけ。その背中を見つめながら、言葉を失うとらや一同…。最高の名場面だ。

いつも寅は旅先でみんなのことを思っているが、今回はそれをひっくり返してみんなが旅先、寅が留守番、という逆シチュエーションを設定することで、寅がどれだけみんなのことを好きか、どれだけ寂しがり屋か、そしてどれだけ面倒くさい性格かを余すところなく表現し、同時に、寅の独白からいつも旅している彼の心情まで伝えてしまう。最高のコメディ・シーンが最高に感動的なエンディングへと収束する。まったく素晴らしい。

それにしても、みんなが帰ってくる前のあの寅の独白、旅から帰るとさらさらっとお茶漬けなんか食べたくなるからなあ、面白くない話でも面白いねと言って聞いてあげなくちゃ、旅から帰った人には優しくしてあげなくちゃなあ、というセリフにはしみじみと寅の思いが滲んでいて、ひときわ味わい深い。

さて、これほどまでに素晴らしい前半に続く後半のマドンナ篇は、それほど強い印象を残さない。さくらをつけてきた不審人物が実は寅の幼なじみと分かり、彼と一緒に出かけた寅がその妹であるりつ子と出会う流れだが、まあ新しい趣向としては、いきなりマドンナと寅が喧嘩することが一つ。画家であるりつ子は絵を汚されたことを知って激怒し、寅と喧嘩になる。ムシャクシャして帰ってきた寅は、翌日りつ子が来ると聞いて「一歩も入れるな」「女だてらに絵を描くなんてろくな女じゃない」「インテリ女と便所のナメクジは大嫌いだ」と毒を吐きまくるが、いざりつ子が現れて「昨日はごめんなさい」とにっこり笑うと、「いえそんな…ささ、どうぞ入って下さい」と急変する。

お約束の展開だが、寅がマドンナと出会った途端に喧嘩するのはシリーズ中これだけじゃないだろうか。そういう意味では貴重である。

もう一つは、りつ子と親しい二枚目が登場して寅が失恋したと思わせ、実はフェイントだったという、いつものお約束を逆手に取ったギャグ。登場するのはりつ子に気がある画商の一条(津川雅彦)で、二人が親しげに喋っているのを見た寅はショックを受け、旅に出ようとするが、実はりつ子は一条が嫌いだったというオチである。一条を見送った後で、りつ子が「見た、あの男? いやな奴なの、もう大嫌い!」と言いながら戻ってくると、寅の顔がぱあっと明るくなって腹が減ったと言い出す。

ちなみに、津川雅彦の「男はつらいよ」シリーズへの出演はこれだけだと思うが、二枚目だけど嫌な奴というキャラにぴったりで、ナイス・キャスティングだ。

目新しいのはそれぐらいで、他に傑出した場面やセリフを思い出せない。今回のテーマは芸術と生活(喰うこと)の両立だが、りつ子を交えたとらやの団欒やりつ子と寅の会話も平均的だし、取り立てて冴えたギャグもない。笑ったのは寅が会話している一条とりつ子の隣に(二人が恋人同士だと思ってショックのあまり)座りこんでしまい、一条がうさんくさい目で寅を見るところぐらいだった。

しかし、いつも驚異的な鈍感さで寅の気持ちに気づかないマドンナばかりの中、りつ子は寅の気持ちを知り、かつ寅にはっきりと自分の気持ちを伝えることに成功した数少ない、というかほぼ唯一のマドンナである。寅の気持ちに気づいて遠回しに断ろうとしたマドンナには、他にも若尾文子や新珠三千代がいるが、遠回しな言い方が寅に通じず、結局ちゃんと伝えることはできなかった。しかしりつ子の場合は、はっきりと筋道を立てて自分の思いを寅に説明する。自分は芸術家なので、女としては料理も子育てもできないハンパ者だ、だから寅とは今のままいい友達でいたいのだ、と。

そして寅もきちんとその気持ちを理解する。りつ子は寅にはっきりと自分の気持ちを伝え得た、ほとんど唯一のマドンナなのである。

ところでこの二人の会話場面には、ずっとショパンの「別れの曲」が流れている。本作は季節が冬ということもあって、全体に陽性というより哀感が強い作品だけれども、この「別れの曲」が流れるシーンでそれがもっとも顕著で、「男はつらいよ」シリーズでは珍しいほど哀感溢れるシーンになっている。

というわけで、マドンナであるりつ子と寅のストーリーは平均点レベルだけれども、前半の九州旅行のエピソードがあまりにも素晴らしく、加えて全体の哀感溢れる抒情性が記憶に残る一篇であります。

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