『灰色の虹』 貫井徳郎   ☆☆☆☆

貫井徳郎氏はこれまで『慟哭』ぐらいしか読んだことがなかったが、たまたま読んだ短篇集『崩れる』が結構愉しめたので、アマゾンで評判が良い長編小説を入手した。テレビドラマ化もされているようだ。

冤罪ものである。私は昔から冤罪ものに格別な関心を持っていて、というのも冤罪はある意味犯罪以上に忌まわしいと思うからである。社会が一丸となって、正義の名の下に、罪のない人間の人生を破滅させてしまう。悲劇である以上に不条理きわまりなく、ある日突然この災難に見舞われた人にとっては地獄以外の何物でもない。犯罪被害者になるのはもちろん不幸だが、実は被害者なのに加害者のレッテルを貼られ、社会の怨嗟を浴びながら制裁を受けるなんてたまったものじゃない。現代社会で生じ得る、最大の悪夢の一つだと思う。

冤罪ものは、朔立木氏の『死亡推定時刻』や周防正行監督の『それでもボクはやってない』のように、冤罪発生のメカニズムを時系列に追っていくのが王道だと思うが、本書はそれに加えて「復讐」という強力なエンタメ要素が導入されている。読者は、過去の物語として一人の平凡な青年が殺人の濡れ衣をかぶせられるプロセスを見、それと並行して、青年の出所後に刑事、検察官、弁護士、裁判官、目撃者と冤罪の責任者たちがひとりずつ復讐されていくプロセスを見る。荒唐無稽といえば荒唐無稽だが、エンタメとしての面白さは鉄板だ。

ちなみに、復讐劇の真相については冒頭で著者自らネタばらしをしているが、終盤ではそれを逆手にとって更にどんでん返しを仕掛けてくるあたり、著者のミステリ作家としての意地を感じた。いずれにしろ、リーダビリティは折り紙付きである。過去の物語と現在の物語、どちらも先が気になってしかたがない。

さて、冤罪が起きてしまう図式は、やはり『死亡推定時刻』とよく似ている。直感で決めつめてしまう刑事、お仕事モードの検察官、やる気のない弁護士。それから本書には目撃者がいるのだが、こいつのいい加減さがまた噴飯ものである。『それでもボクはやってない』でも、被疑者の運命に無関心な目撃者がデタラメなことを言うシーンがあったが、本書では更に悪質だ。似たような題材を扱った小説として、西村京太郎氏の『七人の証人』を思い出した。目撃者は本当は記憶に自信がなかったり、肝心の瞬間を見ていなかったりするのだが、「他にも証人がいるのだから、こいつが犯人で間違いないだろう、だからおれが話を盛っても問題ないはずだ」と思い、話を作ってしまうのである。全員がこれをやるので、冤罪が成立してしまう。裁判の証人は、自分が見ていないことは絶対に言ってはいけないのである。

本書の場合、目撃者の目立ちたがりでいい加減という性格に加え、刑事がプレッシャーをかけてくる。あんなプレッシャーのかけ方をされたら、いい加減な人間じゃなくてもつい気が弱くなって「はい、あの人でした」と言ってしまうかも知れない。恐ろしいのは、刑事は「ホシをあげられさえすれば、本当のことなんかどうでもいい」と思っているふしがあることである。『それでもボクはやってない』でもそうだったが、本当にこんな刑事がいるのだろうか。いるとしたら、もうこれは犯罪である。冤罪は、殺人と同じように無辜の市民を破滅させるのだから。

このようにして、ありもしない目撃証言が出来上がってしまう。その結果は、あまりにも悲惨である。逮捕された青年が破滅するだけではない、一つの家族がまるごと破滅してしまう。全体に救いがなく、暗いムードの本書だが、唯一の救いは山名刑事の存在だ。彼は連続殺人の捜査に携わる一員だが、刑事ながら過去の事件が冤罪だったことに気づき、その事実に対して真摯に向き合おうとする。

ストーリーの細かいところは、冤罪被害者による関係者への「復讐」という大技を繰り出しているだけに、一部突っ込みどころがなくはない。裁判官が自分の妻の不倫疑惑にあんな対応をするだろうかとか、あの自動車事故の状況で誰も目撃者がいないのはおかしいとか、果物ナイフを投げつけて姿を見られないのはおかしいとか、そんなことである。『死亡推定時刻』や『それでもボクはやってない』と比べると、エンタメに寄ったせいで詰めが甘いと感じる部分がある。しかし全般には十分面白く、読み応えにもリーダビリティにも不足はない。

それにしても驚いたのは、裁判官の生活ぶりである。職業上の理由で世間一般の人々との交流が制限されていて、ろくに旅行もできないらしい。本当だろうか。確かに仕事上の責任は重大だが、そんなことじゃ一般社会の常識や慣習を知らない、世間知らずの裁判官が出来上がってしまうんじゃないだろうか。

さて、とても面白かったし読了時の哀感も良かったのでぜひテレビドラマも観たいと思ったのだが、どうやら米国暮らしの人間には鑑賞する手段がないようだ。DVDも出ていない。残念である。ネットで調べた限りでは、主人公の山名刑事を椎名桔平、冤罪被害者の江木を塚本高史、その母を風吹ジュンが演じ、あまりにも救いがない原作のラストは少し変えてあるようだ。しかし原作からの一番の変更は、外見的にイケてないはずの江木とその婚約者が美男美女になっていることだろう。これは登場人物たちの心理描写の上でかなり重要な要素だったと思うが、テレビドラマ的にはやはり美男美女がマストなのか。

まあそれはいいとして、なんとかドラマ版も観てみたいものである。二時間ものの単発ドラマもDVDを出してくれないかなあ。

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