『ハンナとその姉妹』 ウディ・アレン監督   ☆☆☆☆☆

アマゾン・プライムで鑑賞。大昔に一度映画館で観たがあまり印象に残らず、すっかりストーリーを忘れていた。が、今回もう一度観て、なんといい映画だろうかとハートを鷲掴みにされた。昔と違ってウディ・アレンの映画のツボが分かってきたからだろうか。これは名作だと思う。こんないい映画をタダで観れるなんて、長生きはするものである。

先日観た『アリス』と違って、ファンタジー要素はまったくない。例によってウディ・アレンお得意の夫婦や恋人たちのすったもんだで、深刻な大事件に発展するわけでもなく、なんとなく起きてなんとなく収束する空騒ぎエピソードばかりだ。以前印象に残らなかったのもそれが理由だと思うが、しかしこの映画の醍醐味はドラマのスケール感にではなく、ひとつひとつの場面のニュアンスの豊かさにある。

主要登場人物はハンナ(ミア・ファロー)、リー(バーバラ・ハーシー)、ホリー(ダイアン・ウィースト)の三人姉妹とその家族たち。ハンナはしっかり者の現実主義者、リーは愛にさすらう芸術家肌のロマンティスト、ホリーは無軌道で気まぐれな女優志望者、と性格が割り振られている。それぞれのエピソードが断章形式で並行して進み、章ごとにタイトルが出るのが洒落ている。物語はある年の感謝祭から始まり、二年後の感謝祭で終わる。

まずハンナの夫エリオット(マイケル・ケイン)が、義妹であるリーを好きになる。偶然の出会いを装ったりしつつ接近し、ついに強引にキスをする。驚いたリーは拒もうとするが情にほだされ、エリオットの恋人になってしまう。同棲していた年上の画家(マックス・フォン・シドー)とも別れる。ところがエリオットは願いが叶うと急に罪悪感を感じ、リーを重荷に思うようになる。勝手な男である。一方リーはいつしかエリオットに熱を上げてしまうが、優柔不断な彼の態度に落胆し、大学教授と付き合い始める。するとエリオットはまたまたリーが恋しくなり…。

ホリーは女優のオーディションを受け続けるが芽が出ず、ハンナから金を借りて、売れない女優仲間のエイプリル(キャリー・フィッシャー)とケータリング・ビジネスを始める。そこでイケてる建築家と知り合って三人デートをするが、帰りにエイプリルより先に自分が車から下ろされたことで不機嫌になり、後日オペラ・デートした後エイプリルも誘われたと知ってまた怒る。イヤになったホリーは女優を諦めて脚本家になろうと考え、またハンナに借金を申し込むと「もっと現実的になれ」と忠告され、喧嘩になる。そして彼女はハンナを見返すために脚本を書き始める…。

皆からしっかり者と言われるハンナは家庭を切り回し、ホリーには何度も金を貸し、年老いた両親が喧嘩するとアパートを訪ねて仲を取り持っている。ある時ホリーが書いた小説に自分とエリオットの赤裸々なプライバシーが書かれていることに驚き、ホリーを問いつめるとリーから聞いたという。次にエリオットを問いつめると、彼は(リーとの不倫に罪悪感を持っているため)怒り出し、ハンナに対する不平不満をぶちまける。ハンナは衝撃を受け、自分の結婚生活は間違っていたのかと落ち込む…。

大体これが三人姉妹の物語だが、それぞれのストーリーは密接に絡み合っている。そしてここにもう一つ、ハンナの前夫であり、TV局で働くミッキー(ウディ・アレン)のストーリーが絡んでくる。

ミッキーは子供ができないことからハンナと離婚し、その後ホリーともデートしたがまったく趣味が合わず喧嘩別れする。今は独身だが、ある日医者に耳の再検査が必要と言われ、脳腫瘍かも知れないという恐怖に取り憑かれる。夜も眠れないほど悩んだ後、結局何でもなかったと分かるが、いったん死の恐怖に取り憑かれた彼はTV局を辞め、人生の救いを求めてカソリック教会やヒンズー教徒などを歴訪する。それでも人生の意味を悟れない彼はついに自殺を考える…。

このように本作は、密接に関連する三姉妹のストーリーと、そこからちょっと離れたミッキーのストーリーで構成されている。この二者はそれぞれ異なる役割を担っていて、ミッキー・プロットは映画のテーマを直接的に掘り下げ、明快なメッセージを発信する。三姉妹のドラマはその注釈あるいはケーススタディとして、物語を膨らませる。本作においてはこのストラクチャーがきわめて精妙、かつ効果的である。

ではミッキー・プロットで追及されるテーマとは何か。人間はいつか必ず死ぬ。その恐怖と空虚を克服するために、太古の昔から人間は自らにこう問いかけてきた、生きることの意味とは何か。あらゆる宗教や哲学が答えようとしてきたこの問いを、ミッキーもまたこの映画を通して探求し続ける。

ユダヤ教からカソリックに改宗し、ヒンズー教にまで手を伸ばすが、答えを見つけることはできない。この道の果てに残された選択肢は、自殺だけである。絶望の果てにぶらりと入った映画館で喜劇映画を観ながら、彼は悟る。いずれやってくる死について思い悩むのはムダ、人生の意味を探すのもムダである。人生はただ、楽しむためにある。終盤にスッキリした顔で登場したミッキーは、遍歴の果てに得た悟りをホリーに語って聞かせる。言うまでもなく、この思想は多くのウディ・アレン映画に共通するものだ。

さて、これが映画のメッセージだとすれば、三姉妹のドラマはその「注釈」である。そこには人生の意味に悩む人々は一人も出てこない。彼らの喜怒哀楽はいつも目の前の人間関係であり、恋愛であり、仕事である。そして重要なのは、彼らのドラマには発展も結論も悟りもないということだ。彼らのエピソードは常に堂々巡りであり、空騒ぎであり、それがどんなに頭が痛いトラブルであっても、究極的にはバカバカしい営みである。

エリオットは不倫愛をする中で罪悪感を覚えたりひどい嫉妬に苦しんだりするが、二年後の感謝祭のパーティーでも、相変わらず同じようにリーを目を追っている。そこにはどんな進歩も学びもない。愚かしいが、同時に愛らしくもある。ハンナとホリーは何度喧嘩をしても、また仲良く七面鳥を切り分けている。ハンナの両親も同じである。何度喧嘩して今度こそ離婚だと騒いでも、やっぱり二人でいる。彼らはただ右往左往しているだけなのだ。そしてそのことが、これらのエピソードをすべて微笑ましさのオーラで包み込む。その時その時でどんなに悩んでも、それらはすべて一過性のものであり、だったら人生は楽しむにしくはない。

人生を楽しむとはつまり、やりたいことをやる、自分の心が求めているものを追求するということであり、だから嫉妬したり喧嘩したり泣いたり怒ったりしても構わない。それらも含めて人生の醍醐味であり、だからハンナとその姉妹たちはその意味でみな人生を楽しんでいる。彼女たちのエピソードがテーマの注釈でありケーススタディというのは、そういう意味だ。家庭を守るハンナ、愛を求めてさまようリー、生き甲斐を求めてさまようホリー、彼女たちはみなそれぞれが信じる人生を生きている。

ところで、アレン監督は自他ともに認める審美的なるもののコレクターとして、この映画に色々な美しいものを盛り込んでいる。それはたとえばホリーとエイプリルと建築家が行くマンハッタンの建築物ツアーだったり、エリオットがリーに贈る詩集だったり、二人で訪れるソーホーの書店だったり、ミッキーがホリーに聴かせるジャズやバッハの音楽だったり、リーの恋人が描く絵だったりする。もちろんこれらも、人生に愉悦をもたらすものである。アレン監督は私たちにご馳走を振るまうホストのように、この映画を通して美しいものを差し出してみせる。

それからもちろんこれはコメディ映画であり、ウディ・アレン流のアイロニーに満ちた笑いにも事欠かない。私が特に笑ったのは、ミッキーとハンナがまだ夫婦だった時に、友人夫妻に精子の提供を依頼するシーンである。妙に愛想良く笑顔で説明するハンナ、喋りまくるミッキー、こわばった顔でそれを聞く友人妻、どことなく満足気な友人夫、などのリアクションがとてもおかしかった。

印象に残っているセリフはこれだ。耳の再検査が必要と言われたミッキーは脳腫瘍に怯え、もはや何も手につかなくなる。「ああ何ということだ、今やぼくの人生は暗黒に包まれている。今朝のぼくはあれほど幸せだったのに!」
すると同僚の女性が言う。「今朝のあなたはサイテーだったじゃない。番組の視聴率も悪かったし」
するとミッキーが言う。「いや、今朝のぼくはとても幸せだった。ただ、それを知らなかっただけだ」

笑ってしまったが、この感覚はとても良く分かる。心の平安が失われてはじめて、私たちはそれがどれほど幸せなことだったかに気づく。おそらく私たちは皆、自分がどれほど幸せか気づいていない人々なのである。

というわけで、とても精妙で複合的な物語とコメディ要素、審美的なディテールなどが見事に溶け合って、この『ハンナとその姉妹』の愉悦に満ちた世界は出来上がっている。まるでいくつもの優雅なモチーフが組み合わさって、一つのシンフォニーを形作るかのよう。まったく素晴らしい。

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