『安南 ー 愛の王国』 クリストフ・バタイユ   ☆☆☆☆☆

久しぶりに再読したが、本書は何度読んでも初読時の新鮮な魅惑と美しさを失わない稀な小説の一つである。フランスの作家クリストフ・バタイユのデビュー作で、1993年発表。作者はこれを書いた時若干20歳だったため、その早熟の天才ぶりが話題になった。バタイユは本書により1994年度ドゥ・マゴ文学賞を、史上最年少で受賞している。

ストーリーは、一種の歴史ものである。18世紀終わりから19世紀初頭にかけて、フランスからヴェトナムに派遣されたドミニコ会修道士と修道女達がこの物語の主人公。しかしこれは別に歴史上の大事件にスポットを当てた小説ではなく、時代のうねりの中を名もなく生きた男女のささやかな運命を、どこかはかない夢のような雰囲気とともに描き出した静謐なロマンである。

18世紀末、騒乱のヴェトナムからフランスへ七歳の皇太子カンが派遣される。フランスの兵士と宣教師をヴェトナムに招き王朝を救ってもらうためだったが、フランス皇帝にもはやその力はなく、幼いカンは異国の宮廷で死ぬ。しかしカンを愛した老司教が金を集め、二艘の帆船を用意し、カトリック教会の支援を得て、兵士とドミニコ会修道士をヴェトナムに向けて送り出す。

船は長い航海の果てにヴェトナムに到着し、フランス人たちは美しく輝く異国の森と田園を見る。が、サイゴンへ行進した兵士たちは密林と疫病のため全滅する。武力行使に異を唱え、小さな村で農民たちに混じって暮らし始めた修道士と修道女たち、十人ほどだけが残る。

彼らは農作業をしながら布教につとめるが、ヴェトナムの農民たちは万物に神が宿るという古来の信仰を捨てない。そのうち修道士たちは生活の厳しさの中でキリスト教を忘れ、フランスを忘れ、また彼ら自身もフランス本国から忘れ去られる。ドミニコ会の記録も、戦乱の中で失われる。

こうして彼らは歴史の表面から消える。ヴェトナムで暮らす彼らの中の三人が、次の土地に向けて旅立つ。残った修道士たちは、その直後にやってきたヴェトナム皇帝の兵士達に殺される。旅立った三人は二人になり、やがて辿り着いた安南で暮らし始める。二人はもはや修道士でも修道女でもなく、ただの農民となり、そしてついにただの男女になる。数年後、二人は一緒に死ぬ。

辻邦夫氏のあとがきによれば、本書は史実を踏まえながらもある程度意図的に改竄されているという。改竄の目的は、愛の物語をより効果的に引き立てるため、虚構の美しさを完成させるためである。つまりこの物語のウェイトはあくまでフィクション部分にあり、史実にはない。主な改竄部分は政治的意図の排除であり、それによって本書は、(辻邦夫氏によれば)歴史の中に穿たれた無時間の愛の王国を現出させている。

この物語が歴史小説らしくないのは、多分そのためだろう。普通の歴史小説では「時間」が描れるが、本書で描かれているのは「無時間」なのである。もちろん、フランスやヴェトナムの歴史の変転という「時間」も描かれてはいるが、それらはただ、真のテーマである「無時間の愛の王国」の対比として描かれるのみだ。本当に永遠で、真実なのは、誰からも忘れ去られた「無時間」の方なのだ。誰もが覚えている「時間」=「歴史」とは、ただ移ろいゆく空虚な何かに過ぎない。

この逆説的な感覚が本書の根底を貫いていて、ささやかな物語に永遠の煌めきを与えているように思われる。

小説全体を支配するのは静謐、メランコリー、そして無常観である。その一方で、この物語を形作る二大エレメントは永遠の自然の美しさと、人間の営みの儚さ、だと思う。高邁な理想と使命をもってフランスを出発し、異国に到達し、その果てにヴェトナムの大自然の中に溶けるように朽ちていくキリスト教徒たちの末路は、当然ながら読者に絶望とメランコリーの感覚を与えずにはおかない。その意味で、これは悲劇と言っていいと思う。

が、同時に、キリスト教の使命と戒律から解放されて、ただ愛し合う人間の男女に帰っていくドミニコ修道士とカトリーヌ修道女の姿は、その厳しい逆境と貧困の中にあってさえ、どこか幸福を感じさせないだろうか。人の在り方の、本来の姿を感じさせないだろうか。権力闘争に明け暮れるヴェトナム皇帝やフランス皇帝と比べた時、そこには犯し難い高貴さ、崇高な何かがある。そう感じるのは私だけではないと思う。

そして、このとても微妙なバランスで成立する「無時間」の物語を支えるのは、始まりから終わりまで一定の緊張感と瞑想性を維持する見事な文体である。辻邦夫氏が言うように簡潔でありながら、読者の想像を掻き立てる力強さがある。そしてこの文体が作者のバタイユに、歴史的事実と虚構のロマネスクと瑞々しい自然描写とを、自由自在に混ぜ合わせるという離れ業を可能にしている。

流麗というより簡潔な文体であるためシンプルで無技巧に見えがちかも知れないが、一つのパラグラフの中に異なる次元の描写(個人の行動と歴史のうねり、ヴェトナムの寒村とフランス宮廷、現在と過去、などなど)をごく自然に、ロジックを超えて並列し、あるいは混ぜ合わせていく叙述の巧みさはまったく見事だ。これこそがこのシンプルな物語に、豊饒な広がりと余韻を与えているものだと思う。若干20歳のバタイユにどうしてこんなことができたのか、まったく不思議である。

本書はほとんど長編とも言えない短さで、すぐに読み終えることができるけれども、この中篇から溢れ出すロマネスクと詩情の深さ、そして永遠に触れたような感覚は比類がない。きっとこれからも何度も読み返すことになると思う。

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