『聖女ジャンヌと悪魔ジル』 ミシェル・トゥルニエ   ☆☆☆☆☆

ミシェル・トゥルニエが1983年に発表した『聖女ジャンヌと悪魔ジル』は200ページ程度の中篇小説で、百年戦争を背景にジャンヌ・ダルクとジル・ド・レの運命の交錯を描く小説である。ジャンヌ・ダルクを知らない人はいないと思うが、もう一人のジル・ド・レ男爵は歴史上名高い幼児殺戮者で、つまり自分の領地内の美少年を何百人も攫ってきては弄び、首を切ったりして虐殺し、それによって性的興奮を得ていたというとんでもない悪辣な人物である。当然、最後は逮捕されて火刑に処せられた。

しかしこの人物、こういう悪行に耽る前は軍人としてジャンヌ・ダルクとともに戦い、「救国の英雄」と呼ばれたこともあったらしい。しかしジャンヌが捕えられ、処刑された後は自分の領地に籠り、錬金術に耽溺するようになり、しまいには極悪非道の所業に身を投じた。ジャンヌの処刑が彼の精神を毀損し、歪めてしまった、と見えなくもない。本書は前半でまずジャンヌとジルの出会い、そして火刑台の露と消えたジャンヌの運命を語り、後半でその後のジルの運命を語る構成になっている。タイトルには二人の名が並んでいるが、内容的には明らかにジャンヌよりジルの方に比重が置かれているる。本篇の主人公はジャンヌ・ダルクではなく、ジル・ド・レ、即ち悪魔の方なのだ。

聖女じゃなく悪魔が主人公というのは倒錯に思えるかも知れないが、しかしこんな風にとても人間の所業とは思われない悪行、あるいは残虐非道をきわめた人物には、どこか人間精神の深いところを惹きつけるものがあるようだ。かの澁澤龍彦もジル・ド・レについては強い関心を抱いていたようで、あちこちに色々なことを書き残している。当然、本書の作者ミシェル・トゥルニエもこの稀代の幼児殺戮者の精神構造に興味を持ち、本書でその謎に肉薄しようと試みたに違いない。

本書で語られる物語のどこまでが史実でどこからが創作か私には判断できないが、ちょっと検索してみたところではおおむね史実を踏まえているようだ。思うに、ジル・ド・レの謎の中心にあるのはこの史上稀に見る悪魔的サディストが神のお告げでフランスを救おうとしたジャンヌ・ダルクの心酔者でり、また敬虔なクリスチャンでもあった、という事実である。そんな人物が、なぜこのような恐ろしい悪魔的所業に身を委ねてしまったのだろうか?

本書の帯には「救国の乙女ジャンヌを聖なる対象として愛した善良な田舎貴族ジルが、なぜ悪魔の所業に耽り、多数の子供を誘拐・虐殺して同じ火刑の炎に身を焼かれたのか…」とあるが、まさにこれが本書の核心となる問いである。

そしてまた、同じく帯に「…巨匠トゥルニエが史実をもとに魂の救済を描く至高の名作」ともあるのだが、問題はこの「魂の救済」である。これは人非人だったジルが何かをきっかけに改心し、その心に善が蘇って涙を流して悔悟するみたいな、安物のテレビドラマみたいな「救済」のことではない。トゥルニエがそんな話を書くわけはないのである。

これはジルの心の内部の救済を描くというより、ここまで悪魔的なことをやった殺戮者の「魂の救済」がキリスト教的にはいかにして可能か、という形而上学的アクロバットを追求する小説である。そしてそれを踏まえて、聖と悪という背反する二つの極のきわめてミステリアスな関係にメスを入れようとする小説なのである。

この部分をもう少し詳しく説明すると、まず、ジル・ド・レ男爵の中にはもともと信仰心とサディスティックな嗜好の両方が存在した。まあ実際どうだったかは知らないが、少なくとも本書ではそうなっている。で、ジルは当然、信仰心でもって自分の悪徳や欲望を抑圧しようとした。ここにイタリア人プレラッティが登場する。彼こそいわば幼児殺戮者ジル誕生の産婆役であり、計画者と言える人物なのだが、プレラッティはジルに、むしろ欲望のままに振る舞うよう勧めた。

なぜか。この錬金術師的イデオローグは、ジルを聖者にするためには欲望の抑圧なんて消極的な方法でなく、もっと大胆な、万人があっと驚く方法が必要だと考えた。そしてその方法として、ジルの悪魔的嗜好を抑圧するのでなくむしろエスカレートさせ、いったん彼を悪魔の道に落とした上で、そこから「改悛」というマジックによって悪と聖を大逆転させ、ジルを聖者にしようとしたのである。

この「改悛」こそ、本書の肝である。私はキリスト教には詳しくないが、どうやらこの宗教には悪をきわめた罪人が心から悔い改めるならば、悪いことも良いこともできない小心な小市民よりむしろ聖なる高みに達することができる、という考え方があるらしい。この言い方で正確かどうか自信はないが、たとえば罪多き女性マグダラのマリアが神への愛ゆえに聖女になったことが「赦されることの少ない者は愛することも少ない」と説明されるのも、これに近い。つまり罪の深さがすなわち「改悛」の深さに、ひいては信仰の深さに変化するという錬金術を使うならば、罪深き者が一気に聖なる高みに駆け上がることが可能になる。

これは不思議な逆説である。要するに、もっとも悪いことをした者が、その改悛の激しさゆえにもっとも良き信者になれる、というロジックだ。だとするならば、史上最悪ともいえる悪行に手を染めたジルは、この上ない聖なる高みへ上ることができることになる。

それが本書で開陳される、悪魔ジルが聖者となるための形而上学的アクロバットである。両極端であるはずの悪と聖がくるりと裏返ってしまうという魔法。裁判の最後にプレラッティは言う。魔女として焼かれたジャンヌが、いつの日か聖女に列せられないと誰に言えるだろう。そしてそれと同じく、ジルもまた悪魔として焼かれ、やがて聖ジル・ド・レにならないと誰に言えるだろうか。

現代の私たちは、ジャンヌは聖女となったけれどもジルはそうならなかったことを史実として知っている。だから本書は一種幻想譚の様相を帯びているが、同時にこのプレラッティの奇怪な理論は、キリスト教における聖と悪のミステリアスな関係を私たちに示しているようだ。少なくとも、私はそこに信仰というものの計り知れない深淵を感じて、戦慄させられた。中世の教会や聖人伝というものがどこか残虐な血みどろのイメージと切り離せないことも、妙に納得させられたものである。

さて、本書ではジャンヌとジルの史実の物語がそうした摩訶不思議な形而上学をはらみつつ展開されるわけだが、難しいこと抜きに、単純に物語として読んでも十分面白い。前半では百年戦争にジャンヌが登場し、軍人のジルはジャンヌとともに戦い、フランスは救われ、しかしジャンヌは捕えられて火刑台の露と消える。悩乱するジルは領地に引きこもり、沈黙を守り、やがて悪魔に生まれ変わる。イタリアからやってきたプレラッティがその産婆役となり、領地では次々と子供たちが消えていく。奇怪な噂が広まり、人々は恐怖し、ついにジルを逮捕するために軍隊がやってくる…。

そしてなんといっても、トゥルニエの究極まで彫琢されたこの文体。まるで文章のすべてが大理石に彫り込まれた箴言のようだ。端正でムダがなく、大仰さもなく、品格とエレガンスに溢れている。ほれぼれしてしまう。

ちなみにジルの残虐行為も裁判の中で描写されるけれども、その書きぶりはきわめて平静、客観的で、猟奇的なところは微塵もない。だから残酷で衝撃的な物語ではあっても決してホラー風の気持ち悪さはない。この小説は、そういうグロとは無縁の作品である。

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