『無罪』 大岡昇平   ☆☆☆★

本書はイギリスとアメリカが中心の裁判実話もので、13篇収録されている。北村薫と宮部みゆきが編んだアンソロジー『とっておき名短篇』に収録されていた「サッコとヴァンゼッティ」が素晴らしかったので原著を購入した。

やっぱり一番面白いのは「サッコとヴァンゼッティ」だったが、まあこれだけアンソロジーに採られてるのだから当然か。これは有名なアメリカの裁判で、明らかに冤罪であり有名人や知識人含む大勢の人々が抗議したにもかかわらず、二人の貧しいイタリア人が強盗殺人で有罪宣告され、死刑に処せられた事件である。この二人が反政府運動家だったためだ。どう考えてもおかしな目撃証言、矛盾する証言、司法取引による証言ばかりで、物的証拠は何一つない。にもかかわらず、検察と裁判所がよってたかって有罪にしてしまったという、あまりにひどい、アメリカ裁判黒歴史の代表事例である。

この短篇では裁判の目撃者たちがどれだけ無責任なデタラメ証言をしたか、あるいは検察に抱き込まれて嘘の証言をしたかが次々と明らかにされ、読者を慄然とさせる。著者の冷静かつ端正な筆致は興味をそらさず、過剰に煽ることなく、しかし法の正義を問い正す理性と倫理感に貫かれていて心を打つ。

その他の収録作品は「無罪」のタイトル通り、大体において無罪になった裁判(中には「サッコとヴァンゼッティ」のように有罪になったものもあるが)が取り上げられている。色々と怪しかったが証拠不十分で無罪になった例もあり、いくつかは実はやっていたんじゃないかとも思える。しかし著者はそれを、疑わしきは罰せずのルールが機能した事例として肯定的に書いている。

特にイギリスの裁判所はその精神が行き渡っていて、かなり疑わしいのに証拠不十分で無罪にした例もそれなりにあるようだ。私は無実の人間を無理やり有罪にするような冤罪ものの実話をたくさん読んだり見たりしたので、世の中にはこういう例もあるんだなと少し驚きだった。

著者の記述は一貫して冷静で、淡々としている。取り立ててドラマティックに脚色している様子はない。小説家の想像力で真相を推理する、あるいは新たな視点で解釈するなんてことも基本的になく、たまに皮肉なコメントがつく程度である。本書の帯には「見事に小説化した」とあるが、あんまり「小説化」はしていない。実話のレポートと思った方がいい。

だからあまり記憶に残らないものもあったが、比較的面白かったものとしては、たとえば「狂った自白」。これは「サッコとヴァンゼッティ」と同じく冤罪ものだが、一人の男のムチャクチャな嘘のせいで死刑になった三人の男(嘘をついた本人も含まれる)の話で、なんと、死んだと思われていた老人があとで出てきたというから恐ろしい。かなり昔の話で、死体がないと殺人罪が成立しないという大原則もなかった頃の話である。巻き添えになった他の二人(嘘ついた男の兄と父親)こそいい迷惑で、死刑執行直前まで「本当のことを言ってくれ」と弟に懇願していたが、ムダだったらしい。

一人の愚かしい人間のメチャクチャな嘘で、無実の人間が死刑になってしまう。ちゃんと慎重に調べれば分かるはずなのに、である。いいかげんに行われる裁判というものがどれほど恐ろしいか、骨身に沁みる一篇だ。

しかしこの話の不思議なところは、生きていた被害者の話もどうもおかしくて、結局失踪事件の真相はどうだったのか今に至るまで分からないことである。本書収録作にはそういう「本当は一体何があったのか?」が分からず、不思議な事件として今に伝わるものが多く、そういう意味での面白さもある。

「エリザベスの謎」も似たパターンだ。これは冤罪ではないが、拉致誘拐されたとしてある売春宿を告発した少女エリザベスと被告人たちの物語である。最初は当然ながらエリザベスが同情を集めていたが、やがてだんだん証言内容がおかしくなってくる。結局被告人たちは無罪放免になり、今度はエリザベスに偽証の疑いがかかる。しかし、エリザベスが一時行方不明になっていたのは事実なのだ。結局、実際に何が起きたのかはいまだに分からないという。

著者自身があとがきで「事実に即しすぎて、あまり面白い読み物になりませんでした」と書いているように、上記に書いた数篇以外は、ミステリ的な興趣を期待すると大したことはない。ただし、やっぱりこういう事件にはびっくりするような奇怪な人間模様が出て来るので、「色んな人生があるなあ」という観点で読めば、それなりに愉しめると思う。

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