『息吹』 テッド・チャン   ☆☆☆☆☆

テッド・チャンの名前は前からなんとなく知っていたが、読んだのは今回が初めてだった。名前を知ったのは多分、映画『メッセンジャー』の原作者としてだったと思う。映画はセンス・オブ・ワンダーを感じさせる知的なSFという印象だったが、そこまで強い感銘は受けなかった。変わったアイデアの、割と地味なSF映画だなと思った程度である。

それから原作者のテッド・チャンは当代最高のSF作家だというような評価がチラホラ聞えてきて、更に新作『息吹』は大傑作との噂を聞き、ついにアマゾンで取り寄せた。訳者あとがきによればこれはなんと17年ぶりの二作目らしい。超寡作作家だ。しかも一作目も二作目も短篇集で、長編はまだ書いていない。つまりこの人は1990年のデビュー以来30年間、短篇集二冊しか出していないのだ。それでいてこの評価の高さは、確かに異常である。帯には著名人の賛辞がズラリ並んでいて、あの元アメリカ合衆国大統領オバマの名前まである。

訳者はあとがきの中で本書について「当代最高の短篇SF作家による当代最高のSF短篇集」「最近十年のSF短篇集では、おそらく世界ナンバーワンだろう」と書いている。またまたあ、いくらなんでもそれは言い過ぎじゃね? と思いながら読んでみると、驚いたことにこれはまったく妥当な評価だった。むしろ控え目なぐらいだ。正直なところ、本書はどんなSF短篇集と比べても明らかに別格の趣きがある。もちろん私はSF短篇集を読み尽くしてはいないが、それなりに有名どころを読んできた経験に照らし合わせても、これと比較の対象になるSF短篇集をちょっと思いつかない。

どの作品にも、ベースには思考実験がある。あるSF的な仮定を立てて、それが人間性に、あるいは人間社会に、あるいはこの世界のありようにどのような影響を与えるかを思索する小説である。必然的に形而上学的小説となる。つまり情緒一辺倒ではなく、高度に知的な主題を探求する小説となる。表題作の「息吹」はボルヘスを意識して書かれたらしいが、その意味でテッド・チャンのアプロ―チは常にボルヘス的である。

にもかかわらず、出来上がった小説には晦渋さがまったくなく、文体もきわめて読みやすい。ほぼ娯楽SFの文体そのままだ。ボルヘスが晦渋だとは言わないが、それにしてもテッド・チャンの読みやすさは圧倒的だ。やっていることの高度さを考えれば、これは驚くべきことである。

この形而上学性と読みやすさの結合は、私にカズオ・イシグロを思い出させた。最初にカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んだ時も同じような印象を受けたからだ。きわめて高い知性が(そのままでは難解な)思索を噛み砕き、咀嚼して、とことん分かりやすくして読者に差し出しているという感じを受ける。もちろん、それこそが真の知性というものだろう。

おまけに、単に思考実験や形而上学だけじゃなくて人間ドラマもちゃんとある。ストーリーを読むエンタメ的愉しさがあるのだ。まったく人間が登場しない「息吹」「大いなる沈黙」のような一部の作品を除いて、たとえばパラレルワールド理論を独創的に展開した「不安は自由のめまい」のような短篇でも、主人公ナットやその他のキャラたちの人間ドラマがスリリングに展開して読者を惹きつける。バーチャル・リアリティ世界の興亡を精緻にマニアックに描く「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」でも、登場人物たちの悩みや葛藤、不安、喜びなどが活写されて物語を大きく膨らませている。単なる頭でっかちの、理論を弄ぶだけの小説ではないのだ。

これだけでももはや作家として目もくらむ離れ業だが、更に、テッド・チャンの世界観はしっかりした、健全な、バランスの取れた倫理観によって支えられている。つまり彼の小説を読む時、読者は彼が組み立てる思想、形而上学、あるいは哲学の根底には作家としての知性だけでなく、確かな倫理があると感じるのだ。彼の作品の独自性は、未熟な、あるいは病んだ精神に伴う倫理観の欠如や退廃によるものではない。善と真理をリスペクトする成熟した精神から生まれてくるものだ。

倫理とは他者へのリスペクトであり、人間の生に対する、そして真実に対するリスペクトでもある。たとえ過去の過ちを変えることができなくても、真実を知ることには重要な意味があるのだと結論づける「商人と錬金術師の門」や、よりよく振る舞おうとする人間の努力が未来を変えるという「不安は自由のめまい」などから、私たちはテッド・チャンの清新でブレのない倫理観を知ることができる。そしてだからこそ、彼の小説はニヒリスティックでも嘲笑的でもなく、感動的なのである。

本書全体の印象は上記の通りだが、個々の短篇についても触れたい。最初の「商人と錬金術師の門」はイスラム世界を舞台したタイムトラベルものだが、過去へのタイムトラベルが未来に及ぼす影響について三つの異なるパターンを準備している。そしてユニークなのは、どのパターンからもパラレルワールド理論が排除されていることだ。つまり、過去に戻って何をやっても未来は変わらない。

普通タイムトラベルものでは、過去に戻ると未来が変わってしまうことから問題が起き、スリルが発生する。それがないとすれば、つまり何も変わる可能性がないとすれば、一体何が面白いのか。しかし読者は、これら三つのパターンそれぞれの中で意外な発見をするだろう。特に三つ目のエピソードのラストでは、かつて起きた悲劇は防げないが真理によって救済が訪れる、という作者の発想に驚き、感動するに違いない。

表題作の「息吹」は風がエネルギーのもとである生物の世界観を記述したもので、前述の通りボルヘスを意識して書かれたもの。テッド・チャンの作家性が顕著にあらわれた一篇だと思う。

その意味で、個人的に「息吹」以上に面白かったのが「予期される未来」。これはちょっとした小品だが、未来はあらかじめ決まっていることを示すガジェットとそれが人間精神に及ぼす影響が語られる。このガジェット「予言機」は、人間がボタンを押す一秒前にライトが光るというだけの、小さなデバイスだ。必ずボタンを押す一秒前にライトが光る。たったそれだけのデバイスが、この世界に自由意志が存在しないことの証明となる。このアイデアと、そこから導かれる思索の広がりが素晴らしい。

これまでテッド・チャンが書いた最長の作品という「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」は、仮想ペットとして商業的に誕生した「ディジェント」の進化の過程を描く作品。これはアイデア一発ではなく、何十年という長いスパンでどんな問題が起き、どう議論され、そしてまたどう次の問題に発展していくのかを思考実験する小説で、つまりディジェントとそれを取り巻く環境の変遷が丁寧に、克明に描写される。主人公はディジェント開発に当初から関わり、また自分自身でもディジェントを飼って我が子同然に可愛がる女性である。

歳月とともに、最初は愛らしい動物のデザインだけだったディジェントにロボット・アバターが追加されて議論が巻き起こったり、研究用のディジェントとしてエイリアンのデザインが追加されて更なる問題となったり、ディジェント用にハードウェアのボディが開発されて現実世界を飼い主と一緒に「散歩」することができるようになったりする。それ以外にもディジェントの教育問題、仕事をさせることの是非、虐待問題、コピー問題、セックス利用の是非、プラットフォームの廃止や合併など、ありとあらゆる問題が提起される。ヒロインはディジェントの飼い主であり親として、これらの問題に立ち向かい、悩み、葛藤しながら、ディジェント達の未来を切りひらくために戦う。

ロボットや仮想ペット、仮想アシスタントなどが現実になりつつある現在、これは実に驚異的なリアリティを持つ物語であり、またそのように感じさせるだけの精緻な描写に溢れている。仮想世界は、いったん出来上がって人間にとって大切なものになったらもう現実と同じだ。本作のヒロインにとって、ディジェントを見殺しにするのは我が子を殺すも同じことなのである。

が、仮想生物は私企業の都合で簡単に廃止されたりスペック変更されたりする。テクノロジーとビジネスの都合で一つの新しい「種」が発生し、進化し、そして衰退していく。そこにはどんなモラルが必要なのか。私達は今後バーチャルリアリティやロボットとどう付き合っていくことになるのか。この作品はきわめて予言的であると同時に、あまりにも重要なさまざまな問題提起を含んでおり、真剣に考えるとほとんど背筋が寒くなるほどだ。

「偽りのない事実、偽りのない気持ち」も強烈である。これは人間が見るものすべてを動画保存できるアプリが登場し、人間の記憶に動画保存が取って代わる近未来の物語だ。何かを思い出そうとすると検索がかかり、その時の動画が自動再生される。そんなことはあり得ない、やっぱりエスエフだ、とあなたは笑うだろうか。昨今のテクノロジー事情に詳しい人なら、こんなサービスの出現も決して夢物語ではないと分かるはずだ。

この世界では、間違った記憶というものがなくなる。記憶の無意識的な改ざんもなくなる。そうすると、人間社会はどうなるのか、人間関係はどうなるのか。記憶の曖昧さという緩衝材が排除される代わりに、人間社会は何を得て、何を失うのか。

正直なところ、このテーマは単なる娯楽として消費するんじゃなくて今から真剣に議論されるべきだと思う。もはやコンピューターテクノロジーの爆発的な拡大は人間存在の在り方まで変えようとしているが、それらもまた、すべてビジネスの都合だけで進んでいる。それが人間社会に致命的な荒廃をもたらす可能性はないのか。これでいいのか、と真剣に心配になる一篇だ。

「不安は自由のめまい」は、他のパラレルワールドと通信できるガジェット「プリズム」が存在する世界の物語。つまり、無数に分岐する「こうあり得たかも知れない」世界と相互に通信できるという、唖然とするようなアイデアだ。妻を交通事故でなくした夫が、妻がまだ生きているパラレルワールドと通信して妻と会話することができる。プリズムはビジネス利用され、当然悪用もされる。

この作品ではまず、テッド・チャンが考案したプリズム動作の精緻さに圧倒される。そして当然、次にプリズムが人間社会にどんな影響をもたらすかがまざまざと描かれる。それらはテッド・チャンの他の短篇がすべてそうであるように、奇想天外で楽しくもあり、恐ろしくもある。それがあまりにシビアな形而上学的問いを読者に投げかけるからだ。

まず問題になるのは、プリズム依存症である。そして現代人のSNS依存症を思わせるその症状の深刻さは、どこまでもリアルだ。今ここにある現実とは異なる現実、異なる人生を生きる自分とコンタクトできるとしたら、私たちの人生観は間違いなく根こそぎひっくり返るだろう。

この物語世界では、パラレルワールドの「自分」が自分より成功していることに絶望する人間、パラレルワールドの「自分」を今の自分の言い訳にしようとする人間、などが登場する。そもそも人間の心はパラレルワールドを見ることに耐えられるのか、との疑問が湧く。人生は一度きりで「たられば」はない、というのが人間存在の根本条件なのではないだろうか。

おそらくプリズムが現実に登場することはまだ当分の間はないだろうが、しかしこの短篇もやはり、現代の人間とテクノロジーの関係の本質をとらえている。人間の生き方や人生観は、あきらかにテクノロジーによって変化し、再定義されてしまうものなのだ。

さて、長くなったのでこのへんで止めておくが、本書のもう一つの特徴として、現代社会のデジタル・ガジェットの感覚が満ち満ちていることを挙げておこう。過去のSFのように宇宙船や超能力ではなく、ネットや仮想現実や消費者向けの小型デバイスがテッド・チャン世界の構成要素である。そしてそこに登場する革新的なテクノロジーは、おそらくはスタートアップによって作り出され、ビジネスの都合で思わぬ方向へ広がり、あるいはねじ曲がり、誰も予想しなかったやり方で人間社会を変えていく。

人々はそれに翻弄され、怖れを抱くのみで、決してコントロールすることはできない。つまりテッド・チャンの描くSF世界は、現代社会そのものなのである。

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