『魔法にかかった男』 ディーノ・プッツァーティ   ☆☆☆☆

プッツァーティの短篇集『魔法にかかった男』を再読。プッツァーティは長編では『タタール人の砂漠』、短篇では「七人の使者」「七階」などの短篇が有名な不安と不条理の幻想作家だが、特に「七階」はもはやこのジャンルのクラシックといってもいい名作短篇で、色んなアンソロジーにこれでもかと収録されているので知っている人も多いだろう。

その意味では、本書でもいつものプッツァーティ節をたっぷり満喫できる。ただいつも同じ芸風なので、マンネリ気味に感じられるきらいもなきにしもあらずで、ちょっと前に本書を買って読んだ時も「ああ、またこのパターンね」と思ってあまり記憶に残らなかった。が、流し読みで終わらせるのはもったいないと思い直して再読したところ、やはり一流作家、噛みしめれば味わいが深くなる。一つの味を頑固に守り続ける老舗のラーメン屋みたいだ。時に飽きることがあっても、旨いものは旨い。

先に不安と不条理の幻想物語作家と書いたが、このジャンルの元祖がカフカだとすれば、プッツァーティはカフカをもっと分かりやすく、キャッチーにしたような作風だと思う。雑な分類しやがって、とプッツァーティ・ファンは怒るかも知れないが、私はそれが彼の魅力の一番端的で分かりやすい要約だと思っている。カフカは巨大な迷宮であり、文学的アクロバットである。カフカ神学とも呼ばれるように咀嚼が難しく、定型がなく、読者を不安にするほど異様で、おそらく物語の愉しみを求めるだけの読者には敷居が高い。プッツァーティはそんなカフカから寓話性、不条理物語の面白さ、メランコリックな不安の情緒などを抜き出して、コンパクトにポップにまとめたようなところがある。ある種の定型があり、寓話の魅力を湛え、物語性を求める読者の期待に応えてくれる。

天才芸術家というより職人だと思うが、言うまでもなく超一流の職人である。本書でもそんなプッツァーティの魅力が十分に味わえる。いくつか印象に残った短篇をご紹介したい。

「騎士勲章受勲者インブリアーニ氏の犯罪」は、典型的なプッツァーティ的不条理譚である。つい猫を殺してしまったインブリアーニ氏はそれを隠蔽するが、だんだん大ごとになり、町中が犯人探しを始める。しまいには犯人が見つかったら死刑、ということになる。たかが猫一匹のことで、とインブリアーニ氏は考えるが、事態は論理を無視してエスカレートし、インブリアーニ氏の不安は悪夢的に膨れ上がっていく。そしてその不安が頂点に達した時、不可避の結末が訪れる。最初から最後まで、職人の練達の技を見せてくれるような短篇だ。

「家の中の蛆虫」は自分の家をだんだん乗っ取られる話だが、このアイデアは幻想譚や不条理譚のジャンルでは比較的ポピュラーで、たとえばコルタサル「奪われた家」やカルヴィーノ「アルゼンチン蟻」などもこれに近い。が、この短篇の場合は侵略者が下手に出る遠慮がちな男というのがヘンテコで面白い。ひたすら不気味で象徴的な「奪われた家」と比べると演劇的で、コミカルな味もあり、ストーリーとしてはこっちの方が面白い。どんどんエスカレーションしていくのはお約束だが、やはりプッツァーティらしい巧みさだ。

「剣闘士」はいかにも寓話という雰囲気で、蜘蛛を戯れに殺した猊下へ最後に因果応報的な罰が下る、という暗示で終わる。今回本書を再読して印象的だったのがこの手の「因果応報」タイプのプロットが多いことで、カフカにはこんな分かりやすい寓話は皆無だろう。しかし分かりやすいから浅いかというとそうでもなく、プッツァーティの「因果応報」寓話はただの教訓譚というよりも、世界の残酷さやその避けられないメカニズムの非情さを暴き出すような不気味さがある。そこが面白い。

「ヴァチカンの烏」は呪われて烏になった夢を見た男の話で、『雨月物語』の「夢応の鯉魚」を思わせるプロット。『唐宋伝奇集』や『聊斎志異』あたりにも似たような話がありそうだが、キリスト教信仰がベースになっているのがヨーロッパ的だ。

「大きくなるハリネズミ」は人間がハリネズミに断罪される話で、やっぱりこれも因果応報の物語である。非常にストレートで、これじゃ短篇小説として曲がないと思えるほどだが、プッツァーティは罪と罰のメカニズムそのものに魅せられていたというか、オブセッションがあったのではないだろうか。

「偶像崇拝裁判」も同じである。一種のディストピアもので、神への信仰が禁じられた世界の裁判で信仰者が断罪されていると、裁判官たちに恐るべき天罰が降りかかる。これもまったくストレートな因果応報ものだが、ここまで徹底してくれるとエンタメ的に痛快で、ラストに傲慢な裁判官たちを襲う天変地異と身も蓋もないパニック描写が実に快感。これも教訓云々ではなく、最後の暴力的なカタストロフの光景こそが本篇の核心だろう。

そういう意味では、「機械」もまたその直截さ、シンプリシティゆえに魅力的な短篇だ。登場人物たちは山の中で怪物を見つけ、戦う。それだけだ。まるでウェルズの時代の素朴なSFみたいだが、これもストーリーや捻りというより、怪物的な機械そのものが題材なのだと思う。つまり怪物的な機械というオブジェを鑑賞することが、この短篇の眼目なのである。

そしてこれも非常に直截な恐怖譚、「リゴレット」。恐怖譚といってもオカルトや亡霊譚ではなく、祭典の最中に原子力機器の事故が起きる話だ。人災によって世界滅亡の引き金が引かれた瞬間、つまりカタストロフの光景を描く。これこそ本当に事故が起きて兵士や役人たちがあたふたし、観客はただ見守っているというだけの話である。その後どうなったかは分からないし、プロットに捻りもどんでん返しもない。これが世界滅亡モノの長編SFだとしたら、起承転結の「起」だけだ。

が、この短篇はそれで充分成立しているし、むしろそれゆえに強烈なインパクトを残す。まるでモンス・デシデリオが描く世界破滅の絵画のように、カタストロフの光景はそれだけで呪縛的な魅力を持つものなのだ。

「変わってしまった弟」はプッツァーティにしては珍しく非現実的なイベントが起きない、隠喩と暗示だけで成り立っている作品である。要するに、学校の寄宿舎に入ったのを機に弟の人が変わってしまった、というだけ。プッツァーティらしくそこに何か秘密がある、という暗示があるが、それが何かは分からない。分からないまま年月は過ぎていく。

こうして通読してみると、どの作品もやはり「寓話」色が強い、つまり物語の裏に何らかの意味が潜んでいる、という感じが強くする。これらの物語はその意味に付けられた注釈であり、観念を形にした藁人形である。プッツァーティの読者は藁人形そのものよりも、そこに隠された意味に惹きつけられる。またプッツァーティの書くものはロマン主義的な詩や散文のような審美的なテキストではないので、流麗な文体や詩的な比喩表現はいらない。彼の文体はゴツゴツしていて、繊細というより頑丈で、平易で、力強い。

とはいっても、寓話の意味はいつも明確ではないし、単純な教訓やメッセージに還元できるものではない。というのも、プッツァーティの寓話は大抵の場合人間の根源的な不安にかかわるものであり、潜在意識の奥の奥まで下りていかなければ明確な意味を取り出せないからだ。

プッツァーティの寓話に潜む「意味」は、たとえば罪悪感、罰される恐怖、世界に対する恐怖、あるいは世界が滅ぶ恐怖のようなものに関係していると、私には思われる。

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