『ダイヤモンド広場』 マルセー・ルドゥレダ   ☆☆☆☆☆

マルセー・ルドゥレダは20世紀半ばに執筆活動したスペインの作家である。彼女はバルセロナ出身で、本書はスぺイン語ではなくカタルーニャ語で書かれた。スペイン語とカタルーニャ語の複雑な関係や、カタルーニャ語への迫害の歴史は本書の訳者あとがきに詳しいが、本書は三十以上の言語に翻訳されているにもかかわらず、スペイン語圏での知名度はいま一つだという。

しかしあのガルシア=マルケスは本書のスペイン語訳を読み、「この作品は、私の意見では、内戦後にスペインで出版された最も美しい小説である」と激賞している。加えて「たぶん、ルドゥレダは、私が知り合いでもないのに訪ねて行った唯一の作家だと思う」とまで言っている。マルケスにとって、この小説がどれほど特別なものであったかを如実に示す言葉だと思う。

本書はナタリア(愛称クルメタ)という一人の女性の人生を描いた小説である。まだ小娘であるナタリアが後に夫となる男に出会い、結婚し、子供を生み、子供を育てながら家政婦として働き、スペイン内戦が起き、夫や友人たちが戦争に行き、戦死し、残されたナタリアは赤貧に耐えかねて自殺を考え、しかし他の男に求婚されて再婚し、やがて娘が若者に見初められて嫁いでいく。大体そんなところがあらすじである。

長い歳月がひとつの球体の中にぎゅっと凝縮されているかの如き感覚は、ガルシア=マルケスをはじめとするラテンアメリカ文学者たちの作品とも共通するものだ。また、取り立てて非現実的なことこそ起きないけれども、遠い歳月を通して回想に沈潜していくノスタルジックな雰囲気や、時間の流れを自在にコントロールして歳月の流れの中を浮遊する感覚は、とてもマジックリアリズム的である。

文体はやわらかく、淡々としていてとても読みやすい。この長大な物語のすべてが主人公ナタリアの「私」という一人称で語られ、したがってこの物語のすべては彼女の内的独白であり、部分的にはヴァージニア・ウルフに代表される「意識の流れ」の手法を思わせる。この、時に熱に浮かされたような饒舌さを帯びる内的独白というスタイルも、多くのラテンアメリカ文学作品、そしてマジックリアリズムの作品を連想させる。

そしてこの内的独白の文体が、どこか夢幻的なのである。これが本書最大の美点だと思う。訳者あとがきによれば、ルトゥレダは最初この小説をカフカ的なものにしたかった、と書いているそうだ。たとえば本書には鳩が頻繁に出て来るが、小説の最初から最後まで鳩が主人公を埋没させてしまうような、そんな不条理感を漂わせた小説を意図していたらしい。しかし、訳者によればその意図は実現されなかった、そしてそれは読者にとって幸運だった、ということになる。

確かに、訳者が言う通りカフカ的な小説にはなっていない。しかし、どこか現実から遊離したような、一人の女性の脳内の夢が溢れ出したような独特の感覚は、この小説に濃密に充満している。もしかすると、これが当初意識されたカフカ的なるものの残滓なのかも知れない。

そしてもう一つの注目すべき要素は、言うまでもなくノスタルジーである。これも訳者あとがきで「この小説の重要な要素」として言及されている。訳者によれば、著者自身が「まえがき」にこう書いているという。「グラシア街の思い出はすべて、とても懐かしいものだ。ノスタルジーに首までつかってそれを想うと心が安らぐ。さまざまな環境の中で、そしていく度も、こういった思い出は私の慰めであった」

ノスタルジーもやはり、『百年の孤独』や『落葉』などのガルシア=マルケス作品でも、それから『緑の家』『夜のみだらな鳥』『この世の王国』などその他のラテンアメリカ文学作品でも、きわめて重要な役割を果たしている要素である。日本でノスタルジーというと、たとえば「昭和ノスタルジー」のようにあまり芸術的ではなく、安直で後ろ向き、「懐メロ」的な懐古趣味、みたいなネガティヴな意味で使われることが多いが、本書やラテンアメリカ文学の「ノスタルジー」はそれとは本質的に異なるものだ。

確かミラン・クンデラも『無知』の中でノスタルジーという言葉について語っているが、それによれば、ノスタルジーとはもともと「自分がそこにいないことによって引き起こされる苦しみ」のことだったと思う(正確な引用ではなく、私の記憶です)。自分が本来いるべき場所にいない、あるいは本来一緒にいるべき人と一緒にいない、という欠落の苦しみである。

当然、過去はもうそこへ戻れないがゆえに、絶対的なノスタルジーを喚起する。しかしそれだけでなく、たとえば見知らぬ場所に、あるいはまだ見ぬ人にノスタルジーを感じるということだってあり得る。私は行ったこともない異国の写真を見たり話を聞いたりしてノスタルジーを覚えることがあるが、それはそこが自分にとってふさわしい場所、自分がいるべき場所だと思えて、激しく憧憬を掻き立てられるからである。

それと同じで、私が行ったこともないコロンビアを舞台にした小説を読んでノスタルジーを感じるのは、それがあたかも自分の内奥の世界のように、また自分が過去生きていた世界とそっくり同じもののように感じるからである。言葉を変えれば、自分がその場所と分かちがたく結びついている、という不思議な感覚を得るからである。

自分がそこにいないことに苦しみを感じる、というノスタルジーの痛みは、楽しそうだからそこに行ってみたいとか、面白そうだから自分も体験したい、のような思いよりさらに切実なものであり、人間存在の本質に関わるものだ。だから私は、そういう本来の意味での「ノスタルジー」を喚起する芸術作品こそ最高レベルの芸術ではないかと考えていて、言うまでもなく、多くのラテンアメリカ文学作品や本書がその好例だと言いたいのである。

私は日本で生まれ育った男性であり、当然本書のナタリアとは環境も時代も性別もすべてが違う。そしてグラシア街にもダイヤモンド広場にも行ったことがない。ところが本書を読むとこの場所に、人々の生活に、彼らの喜怒哀楽に、強いノスタルジーを覚えるのである。まるで自分がかつてその場所にいたように感じ、そして本書を読んでそこに引き戻されることに甘い痛みと陶酔を覚える。これが最上の文学が持つマジックでなくて何だろうか。

取り立てて文学的技巧を凝らしたようには思えない、娘の一人称がひたすら回想を紡いでいくだけの本書だが、技巧面でも実は素晴らしい。何より見事なのは、それほど大長編でもないのに、長い歳月が通り過ぎていく感覚を完璧に表現できているところだ。

この長い歳月を表現するために、著者はナタリアの人生をずっと追っていくのではなく折々の出来事を切り取って見せているが、その切り取り方のセンスが優れている。章と章の間で急に時間が飛ぶ場合があるが、そんな時に必ずしも前の章が完結していない。文章が完結していない場合すらある。残りはばっさり省略されるのだが、それがかえって余韻と広がりを生む結果になっている。

そして、語り手ナタリアの「意識の流れ」風のモノローグは最終章でピークを迎える。それまでの簡潔さ、さりげなさをかなぐり捨てて改行なしに延々とほとばしる抒情的な文章は、本書の散文詩的な性格を如実に示している。つまり本書は記録文学でもメッセージでもなく、一つの詩であり、純然たるポエジーの器なのである。

そして最後に付け加えるならば、「ダイヤモンド広場」というタイトルがとてもいい。最初の章、ナタリアが恋人キメットに出会うのがダイヤモンド広場である。

本書はガルシア=マルケスが激賞しただけのことはある、素晴らしい小説だと思う。ラテンアメリカ文学が好きな人なら、読んで決して損はしないはずだ。

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