『柳生非情剣』 隆慶一郎   ☆☆☆☆☆

これは隆慶一郎の短篇集で、「慶安御前試合」「柳枝の剣」「ぼうふらの剣」「柳生の鬼」「跛行の剣」「逆風の太刀」の六篇が収録されている。柳生一族の剣士たちを一人ずつ取り上げる趣向で、作品ごとに主役は違うけれども、ある短篇の主人公が他の短篇では脇役として登場する、ということが頻繁に起きる。

面白いのは、ある短篇ではザコキャラ的扱いをされた剣士が、別の作品では見違えるように凄みのある剣士として描かれたりすることである。ひとりひとりキャラが違うので、凄みといってもそれぞれ違う。単に強い弱いという話ではない。

たとえば「慶安御前試合」では柳生十兵衛、宗冬、友矩の三兄弟がさらっと紹介される。十兵衛はもちろん、宮本武蔵と同格レベルの名だたる剣豪。それに比べて、宗冬は大した腕もないのに無難な性格で家督を継いだ男、友矩は女みたいな美貌のせいで将軍の愛人にされて十兵衛に斬られた男、と紹介される。二人とも主役を張れる器量じゃなさそうだ。ところがそれぞれの主演作品を読むと、ガラリと印象が変わる。もしかするとある意味十兵衛より上なのでは、とさえ思えてくるのである。これが実に面白い。

さて、一篇ずつご紹介したい。まず、冒頭の「慶安御前試合」は「日本文学100年の名作」シリーズの第8巻『薄情くじら』に収録されている折り紙付きの名品で、この奇想、凄み、奥深さ、シャープな切れ味には息を呑む。時代小説の短篇としては頂点レベルだろう。司馬遼太郎『新選組血風録』の奥深さと山田風太郎の奇想、その両方を兼ね備えている。

主人公は柳生兵助。この天才剣士と慶安御前試合で対戦することになった宗冬は、兵助の暗殺を目論む。試合に出るため兄の利方と旅する兵助を、裏柳生の棟梁・義仙率いる二十四人の刺客が襲う。ところが兵助と利方はたった二人で奇怪な戦法を使い、裏柳生の二十四人をほぼ壊滅させてしまう。二人は背中をぴったりと付け、そのまま四つの腕と四本の脚を持った蟹の如く縦横無尽に動き回って敵をなで斬りにしていくのである。

その後、義仙が雇った介者剣術の達人と兵助の対決、負傷、御前試合と物語は続く。凄まじい剣法の描写に加えて、池で泳ぐ鯉になりきることの意味や家光の策謀の深さなど、あらゆる要素を高濃度に凝縮した剣豪小説である。

次の「柳枝の剣」は、家光に愛された美青年・友矩が主人公。「慶安御前試合」でも彼の人生が短く紹介されていたが、そこではまるでかわいそうな弱々しい優男みたいだった友矩が、この作品を読むと、実は十兵衛にも匹敵する剣士だったのでは、と思えてくるのが面白い。彼は将軍・家光の寵愛を受け愛人となるが、それを恥とした父・宗矩は十兵衛に友矩を斬るよう命じる。十兵衛は友矩を斬りに行くが、従容として斬られると思われた友矩は、反撃して十兵衛の片目を奪う。

結局のところ友矩は柳生家のためにわざと斬られたのであり、その剣の腕前は決して十兵衛に劣るものではなかった、という暗示が強烈な余韻を残す。家光と友矩の男同士の愛の道行きも哀しく、その運命に殉じた美しい友矩の肖像が、いつまでも読者の胸に残るだろう。これも名品だ。

そして三篇目、「ぼうふらの剣」。私のフェイバリットはこれである。十兵衛、宗冬、友矩の三兄弟中、次男の宗冬が主人公。冒頭の「慶安御前試合」で兵助と対戦するのが彼で、従って読者には凡庸な剣士との印象がすでに刷り込まれている。実際、兄弟の中で一番剣の腕がない、というのが通説らしい。

おまけに三男の友矩と違ってブサイクでずんぐりむっくり、子供の頃から泣き虫、というカッコ悪さ。全然いいところがない。そんなダメダメ男の宗冬が、自分に稽古をつけている父・宗矩の顔色を見てこのままでは父に殺されると思い、兵法がイヤになって遁走する。そして故郷の里で猿楽師の弟子になる。

一方、宗矩は凡庸はなずの宗冬の剣に尋常ならざるものを見、かつその逃げ足の速さや思い切りの良さにも脅威を感じて、十兵衛を派遣する。ところが猿楽師のもとで剣の道にも通じる足運びを身につけた宗冬は、なんと木刀で十兵衛をあっさり昏倒させてしまう。そして、また逃げる。

結局、宗冬は友矩が死んだ後に将軍・家光の指南役となり、愛嬌あるキャラが気に入られてそのまま柳生の家を継ぐ。彼はいつも自分を運の悪い男と嘆き、剣の腕がないことをコンプレックスとしていたが、父・宗矩も兄・十兵衛も、実は彼の剣を極度に恐れていた、というオチである。

剣の道の複雑さと奥深さ、そして人の才能というものの不思議をまざまざと見せつけるような短篇だ。

四つ目の「柳生の鬼」は、満を持しての柳生十兵衛主役篇。十兵衛が「無刀取り」に開眼するまでの物語である。将軍の練習台になるのに嫌気がさした十兵衛は故郷の里に帰り、自信満々でもはやおれに近寄れる奴などいないと肩で風を切っていたが、ある日痴呆めいた老人にあやうく斬られそうになる。天下の十兵衛が、よいよいに老いぼれたじじいにまったく敵わなかったのである。

傲慢の鼻をへし折られた彼は最初絶望し、ヤケになる。やがて再びやる気を出して山に籠って修行し、ついに無刀取りに開眼する。再び里に戻った十兵衛はまた痴呆老人と対決するが…というお話。これはまあストレートな剣豪譚で、王道と言えるだろう。娯楽小説として十分面白いものの、他の短篇ほどの意外性には欠ける。ただ、あの十兵衛でさえ一度は剣の道に絶望した、というのが興味深かった。何事も、いかなる天才でも、才能だけで道を極めることはできないのだ。

次の「跛行の剣」は、戦場で鉄砲に腰を砕かれ、走れなくなった新次郎が主人公。何年もリハビリしてようやく不格好に走れるようになったと思ったらまた撃たれ、今度こそ腰骨が砕けて立てなくなってしまう。しかも美人の奥さんとの間にまだ子供がいないというのに、不能になる。またしても長く辛いリハビリの歳月が始まるが、そのうちに新次郎は父・石舟斎と自分の妻が関係していることを知る…。

まったく不運というか、災厄続き、苦労続きの悲惨な人生である。いいことがまるでない。剣の修練に励みながら普通人にすら劣る体になり、子もなく妻は父に奪われる。そんな中、ただ歩けるようになるために言語に絶する苦労を重ねた新次郎が、地獄のような歳月の後、晩年ついに到達するのが「跛行の剣」である。

二本の仕込み杖に頼ってよたよた歩く彼の前に、八人の刺客が現れる。いずれも五体壮健な、名だたる柳生の剣客たちである。その彼ら相手に身体障碍者である新次郎が振るう「跛行の剣」の凄まじさ。諦めない心と長年にわたる絶えざる修練が結びついた時、奇跡が起きる。

最後の「逆風の太刀」の主人公は五郎右衛門。関ケ原で小早川家の少年主君についた彼は藩が潰れた後米子へ行き、そこでまた別の少年主君に仕える。が、奸物に操られた少年主君が理不尽な行為を繰り返したため、心ある人々はついに反旗を翻す。五郎右衛門はその人々と行動を共にして逆賊となり、圧倒的不利な戦に身を投じる。そして最後の戦闘となり、五郎右衛門は鬼神の如き戦いぶりで敵の大将、つまり少年君主に迫るのだった…。

なぜか人生においてふたりの少年君主に仕えることになった五郎右衛門の運命を描く短篇だが、幼い主君に忠義を尽くしつつ、かつ、おとなとして侍として、自分はどう振る舞うべきかの信念を健やかに貫いた男の肖像である。とても気持ちよく、そして爽快な読後感だ。

以上六篇だが、各篇個別の完成度、そして短篇集全体のまとまりとレベルの高さは異常だと思う。巻末の解説にも帯にも「格が違う」とあるが、まったく同感。底の知れない面白さをたっぷり盛り込みながら、剣の道の奥深さと凄みがさまざまに描き出される。アクションの興奮と、剣の道を極める深淵の両方がある。

加えて、こんなにも奇想天外でスリリングな剣戟小説でありながら、当時の文献や典拠を自在に引用しつつ政局や謀略や剣の道を解説し読み解くという、知的な面白さにも事欠かない。とにかく読んでみて下さいとしか言いようがない出来だ。

六篇どれも面白いが、前述の通り個人的には「ぼうふらの剣」がとても気に入っている。剣の道の摩訶不思議さが一番強烈に、アイロニックに描き出されているからだ。この作品の持ち味を一言で表現するならばアイロニー、だろう。

ついでに他の短篇も一言ずつで持ち味を表現するならば、「慶安御前試合」と「跛行の剣」は凄絶、「柳生の鬼」は剛毅、「柳枝の剣」は艶冶、「逆風の太刀」は痛快、というところだろうか。大抵の長編時代小説より、はるかに濃密な短篇集である。

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