『真珠郎』 横溝正史   ☆☆☆☆

横溝正史の中篇集『真珠郎』を読了。「真珠郎」「孔雀屏風」の二篇が収録されている。これはかなり初期の作品集で、いずれも発表は昭和36年から37年頃。金田一耕助のデビュー作『本陣殺人事件』が1946年発表なので、それに先駆けること約10年ということになる。同時期に書かれた横溝作品としては「鬼火」がある。

実のところ私は横溝正史の金田一耕助シリーズにそこまでの思い入れはなく、これまで読んだ限りでは、著者の最高傑作は「鬼火」だと思っている。それと同時期に書かれた「真珠郎」にはやはり「鬼火」に通じるテイストがあり、なんというか、古き良き浪漫性が過剰なほどに溢れ出す、いにしえの「探偵小説」という感じなのだ。そこがとても蠱惑的だと思う。そんなわけで、私は本書に好感を持った。

もちろん本書でも殺人事件が起きて名探偵が登場するのだが、探偵役は金田一耕助ではなく、由利麟太郎である。これは「蝶々殺人事件」にも登場する人物で、元警視庁の捜査課長、40代ぐらいなのに総白髪という特徴がある。ただし、本格推理小説のお約束というべき最後の謎解きシーンがないので、名探偵としての存在感は薄い。本書でもっとも印象が強いのは、事件の関係者であり一人称の語り手でもある椎名耕助である。だから本書は本格パズラーというより、事件の関係者が数奇な事件を物語る怪奇な冒険小説、という色彩が濃い。

しかも、あまり長くない小粒な小説ながら濃密な浪漫の香りを漂わせている。私はこれが本書一番の特徴だと思うし、美点だと思う。物語はヨカナーンの首の不吉なイメージで幕を上げ、殺人美少年である真珠郎の登場、美少女由美の登場、と役者が揃ったところで首なし死体の出現となる。舞台は前半の湖畔の屋敷から、後半は東京の都会へと移る。

登場人物が少ないので、それほどミステリに詳しい人でなくても途中でなんとなく犯人の見当はつくと思う。が、この小説はそういうことではない。これはミステリ風、怪奇風の浪漫小説なのである。この時代がかった一大浪漫の香りを胸いっぱいに吸い込んで酔いしれる、これが正しい鑑賞態度だ。

そういう意味で、あとがきにもあるけれども、本書は『赤毛のレドメイン家』の系譜に位置する小説だと思う。もちろん『赤毛のレドメイン家』はそれほど怪奇色は強くないし、こちらはそれが毒々しいまでに強調されているが、装飾を取り払って本質を見れば、この二つがきわめて近い小説であることが分かるだろう。

そしてもちろん、私は『赤毛のレドメイン家』のあの馥郁たる抒情性が大好きなのである。最近ではトリックが古臭い犯人がすぐ分かるなどと批判も多いが、あの芳醇な味わいはトリックや意外な犯人なんかよりずっと貴重だ。もしあなたが私と同じ意見の持ち主なら、本書はおススメである。

なんといっても、耕助が由利先生に反逆する終盤の展開がいい。浪漫性が本格パズラーのお約束に打ち勝った瞬間だ。ボートで暗い洞窟の中に入っていくシーンは後の『八つ墓村』を思い出すまでもなく、横溝探偵小説の原風景であり、横溝的耽美世界の象徴である。そしてその後に続く悲劇的な結末は、横溝作品の中でもとびきり切なくロマンティックだ。

さっき最後に名探偵の謎解きがないと書いたが、その代わりに謎解きの役を果たすのが手紙による告白である。ただこの手紙の告白はわりと大雑把で、細かいところが端折られている。だから読者は自分で補完しなければならないのだが、正直、どうやって実行したのかよく分からない部分も残る。細かい部分より大きなパズルを見て欲しいということだろう。

それから手掛かりをフェアに提示していないなど、ご都合主義的なところもある。由利先生が登場して椎名耕助に披露する推理も結構雰囲気重視で、論理性に欠ける。そういうところも含めて、鷹揚で古風な探偵小説という趣きなのだ。つっこみたくなる気持ちは分かるが、そういうことに寛大な気持ちで読むのが大事である。

さて、もう一つの「孔雀屏風」は、時空を超えて惹かれ合う男女を描いた神秘的な一篇である。やはりミステリというより怪奇幻想色が濃いが、短いわりに宝探しや義眼の男などが出てきて、静謐な幻想譚というより意外と賑やかな冒険小説風の味付けになっている。これは横溝正史の、エンタメ作家としての矜持のなせるわざだろうか。

しかしいかんせん短いので、宝探しなど中途半端な扱いになっている。それから、重要な証拠としていくつか出て来る書簡の文体がやたら古めかしくて読みづらい。まあそんなこんなで、これはやはりオマケとして読むのがいいだろう。

本書は初期横溝正史の香りが楽しめる貴重な一冊だ。装丁も毒々しくてスパイスが効いている。

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