『シンコ・エスキーナス街の罠』 マリオ・バルガス=リョサ   ☆☆☆☆☆

リョサの新刊が出たので飛びつくようにして買った。マルケスもコルタサルもドノソもフエンテスももはやこの世の人ではない現在、ラテンアメリカ文学勃興期の主要プレイヤーで依然書き続けているリョサは本当に貴重な存在であり、私のヒーロー以外の何者でもない。そしてその作品はいつも、間違いなく私を満足させてくれる。

『つつましい英雄』の次の作品であるこの『シンコ・エスキーナス街の罠』は、題材といい雰囲気といい『つつましい英雄』によく似ている。実際、ストーリー的にも「つつましい英雄」第二弾といってもいい内容だ。

加えてペルーにおけるフジモリ大統領時代の政治の腐敗が大きなテーマになっていて、初期の特徴だった社会問題告発色も強く前面に出ている。とはいえ、初期の傑作『都会と犬ども』ほどヘヴィーでシリアスなトーンではなく、軽やかでエレガントなトーンとスリリングでエンタメ的なプロットが大きな特徴である。はっきり言うと、とても読みやすい。

どんな話か簡単に紹介する。主要な登場人物は裕福な実業家エンリケとその妻マリサ、そしてエンリケの親友にして弁護士のルシアノとその妻チャベラ。この二組の夫妻が、家族ぐるみで優雅なつきあいをエンジョイする上流階級カルテットで、妻同士がレスビアン・セックスに目覚めることがストーリーの起点となる。

それからタブロイド週刊誌の主幹ロランド・ガロとその部下である女記者ラ・レタキータ、そして同僚カメラマン。これがあまりお上品とはいえない裏街道ジャーナリスト組。そしてもう一人、ロランド・ガロの恐喝まがいの手口で破滅させられた元朗誦家にして今はルンペンのフアン・ベイネタ。彼はいわば貧民層代表である。

さて、まず富裕層のマリサとチャベラがレスビアン・セックスに目覚め、夫に隠れて逢瀬を重ねるようになる。次に悪名高いジャーナリストにしてゆすり屋のロランド・ガロがエンリケのオフィスを訪れ、数年前の乱交パーティーの写真で彼を脅す。エンリケは弁護士のルシアノに相談し、苦しみつつも結局脅迫を撥ねつける。すると写真が週刊誌で公表され、エンリケ夫妻はスキャンダルまみれとなる。妻マリサは、当然ながらエンリケを激しく非難する。

そんな折、ロランド・ガロが死体で発見される。殺人だ。ガロの部下だった女記者ラ・レタキータはこれを有力者エンリケの報復だと考えて激しく怯え、警察に告発。エンリケは逮捕される。無実のエンリケは拘置所で地獄を味わうが、ルシアノの尽力で釈放される。そして次はガロを恨んでいたという理由でルンペンのペイネタが逮捕され、そのまま有罪を宣告される。

一方、ラ・レタキータは影で政府を操ると言われる絶対権力者、通称「ドクトル」に呼び出され、ガロの後任として週刊誌の主幹にならないかと持ちかけられる。彼の政治の道具として、国内の敵対者たちを攻撃し失脚させるための恐喝屋に。この時、ラ・レタキータはガロ殺害の真犯人を知る。

オファーを受け入れたラ・レタキータはドクトルの手先となって週刊誌を存続させるが、その裏で同僚カメラマンと手を組み、命がけの反乱を計画する。大統領の片腕として強大な権力を欲しいままにするドクトルを告発し、その悪行を白日のもとにさらけ出そうという計画である。果たして計画はうまくいくのか? そして、スキャンダルまみれとなったエンリケ夫妻の運命は?

まあこんなストーリーだが、恐喝、スキャンダル、殺人、逮捕、権力者からの圧力、そしてそれに対する命がけの反逆と、波乱万丈のスリリングなストーリーであることはお分かりいただけると思う。ジェフリー・ディーヴァーも真っ青のエンタメ志向である。これをリョサの簡潔にしてしなやかな、融通無碍のラテンアメリカ文体でやられるのだからたまらない。先が気になってどんどん読んでしまう。

加えて、このスピード感。エンタメ的ストーリーを操ってエンタメを超えるリョサの凄さは、その場面構成力にある。つまりシーンの切り出し方、どの場面を描いてどの場面を省くかというセンスである。

本書を読んでいると通常のエンタメ小説のように場面が時系列にズラズラつながっていくのではなく、飛び飛びになっている。つまり要所要所が描かれ、その途中経過はばっさり省かれて時間が飛ぶのである。省略は時に大胆だ。普通のエンタメ小説なら読みどころと思われるような場面すらもばっさりカットされ、事後の会話だけで読者に知らされたりする。

この大胆な刈り込みによって、物語のスピード感が倍増する。読者は物語の中を飛翔していくような目くるめく感覚を覚えるだろう。もしこのストーリーをジェフリー・ディーヴァーやスティーヴン・キングが書いたらページ数は倍増するはずだ。が、だからといって決して物足りなさは感じさせない。むしろ、映画や演劇には真似できない小説の自由自在性を感じさせ、快感である。

その自由自在性の快感を感じさせる最たるものが、リョサの愛読者にはおなじみの、時空を超えて複数場面の会話をシャッフルするテクニックである。これはリョサの小説で必ず使われるテクニックだが、たとえば本書の第20章ではそれが最大限に駆使される。

いくつもの異なる時間、異なる場面、異なる人物たちの会話を説明なしの改行だけで混ぜ合わせ、どんどん羅列していく。それが誰のセリフかという説明もないのだが、それまでの流れによって読者は誰と誰が会話しているのか手に取るように分かる。まるで分割された画面に別々の場面が映し出される映画手法のように、読者は複数のシーンに同時に居合わせることになる。しかも、同時進行する複数映像よりシャッフルされた会話の方が分かりやすい。これこそ小説でしか味わえない快感である。

さて、メインのストーリーはもちろんエンリケの受難と殺人事件の真相、そして権力者への反逆だが、それと並行してもう一つの本書の柱ともいえるのが、享楽的なエロティシズム描写である。前述の通りこの物語はマリサとチャベラのレスビアン・セックスへの目覚めから始まるが、このエロスのテーマは単なる一エピソードではなく、あるいは単なる読者サービスでもなく、本書を貫く重要な軸となっている。最初、妻たちの関係は秘匿されているが、やがてエンリケを巻き込んで3Pセックスを行うまで発展していく。当然、官能的な性行為の描写も豊富だ。

リョサが何を思って政治的エピソードとエロスの饗宴を並べて描いたかは分からないが、少なくともこれによって権力に対する「抵抗」を描いた硬派なストーリーが、殺伐とすることなく、まるで柑橘系の芳香が匂い立つようなエレガンスと悦楽性をまとうことになったのは確かだ。閉塞感や醜悪さの中に閉じてしまうのではなく、この物語は人生の歓びや官能に対しても開かれている。人生には醜悪さとともに、美しさもあるのである。そしてこの小説を通して、私達はその両方にアクセスすることができる。

ちなみに最近日本のミステリなどを読むと人間の醜さや閉塞感をディープに掘り下げたものが多く、読んでるうちは面白いけれども読後感が悪かったりするが、リョサの場合はそんなことにはならない。どんな残酷な事実を前にしてもニヒリズムや冷笑に陥らず、倫理と人間の尊厳への信頼がある。そこがリョサの凄さだ。彼の小説を読むと、人間の生命とはどんな状況にあっても幸福の芽をはらんでいるのだと感じる。

エンリケとマリサはこの物語の中でおよそ考え得る最悪の事態に遭遇し、もはや人生これまでと観念した。しかし、二人が登場する最終章に溢れるこの幸福感はどうだろう。「人生すべて塞翁が馬」あるいは「禍福は糾える縄の如し」。彼らの闘いが私達に教えるのはそのことである。地獄を潜り抜けてきたエンリケ夫妻だが、そんな二人だってこれから幸福になれるのだ。

本書『シンコ・エスキーナス街の罠』は、小説を読む喜びを心から満喫させてくれる小説である。グロテスクでもアナーキーでもないが、予定調和でもキッチュでもない。これぞ文学の愉悦。そしてこの物語もまた、世界中のつつましい英雄たちに捧げられたメッセージなのだと思う。面白過ぎて読みやすくて、あっという間に読み終えてしまうことだけが唯一の不満だった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。