『息子』 山田洋次監督   ☆☆☆☆☆

日本版DVDを入手して鑑賞した。1991年公開の、今となっては30年近く前の映画だ。出演は永瀬正敏、三國連太郎、和久井映見、田中邦衛、いかりや長介、浅田美代子、原田美枝子、となんとなく懐かしさを感じるメンツである。無論今も活躍されている方々も含まれているが、みんな若い。そして、当時の日本の雰囲気によく溶け込んでいる。

ところで私は永瀬正敏という役者さんを最近までちゃんと観たことがなかったが、たまたま彼の出演映画を観て、今更ながら魅了されてしまった。この映画を観ようと思ったのも彼が出ているからである。以前にも『パターソン』や『あん』を観て、味があるいい役者さんだなと思ったが、最近山田監督の時代劇『隠し剣 鬼の爪』を観て本格的にやられた。この人は良い。華やかというより無骨で、滲み出る誠を感じさせ、しかもそこに強さと凛然たる気品がある。そこで出演作を色々調べ、評判が良かったこの映画のDVDを入手した。

いい役者さんがたくさん出ている贅沢な映画だが、決して重厚な作品ではない。さらっとした感触の、軽やかな映画である。強烈なクライマックスや怒涛のような盛り上がりがあるわけでもなく、比較的あっけなく終わる。映画は三つの章で構成されていて、それぞれ「母の一周忌」「息子の恋」「父の上京」とタイトルがついている。このタイトルは画面にも表示される。

「母の一周忌」では、東京で定職にもつかずブラブラしている哲夫(永瀬正敏)が母の一周忌に長野の実家に帰る。そこで一人暮らしになった父(三國連太郎)を今後どうするか、誰が引き取るか、の話題が出るが父は一人で暮らすと言って相手にしない。長男夫婦や姉夫婦は先に帰り、次男の哲夫だけ残る。父の仕事を手伝いながら、哲夫は父と喧嘩する。

「息子の恋」では、きつい製鉄所の仕事についた哲夫が配送先の女子事務員・征子(和久井映見)に恋をする。彼女に会うのを楽しみに働く哲夫。やがて思い切って手紙を渡すが、彼女は口をきいてくれない。どうして何も言ってくれないんだ、と思わずなじってしまった哲夫は、後に彼女が聾唖者ということを知って衝撃を受ける。

「父の上京」では、戦友会に出席するために東京に出てきた父がまず長男夫婦の家に、次に哲夫のアパートに泊まる。長男夫婦の家では再び父を引き取る話題が出るが、またしても決裂。長男は怒り、長男の妻は沈黙する。哲夫のアパートでは哲夫が父に征子を紹介し、この人と結婚すると告げる。父はまた、一人で長野の実家へ帰る。

物語の進行はきわめて淡々としている。取り立てて大事件は起きない。比較的大きなテーマとして一人暮らしの父をどうするか問題と、哲夫の恋があるが、それらは物語の重しだとしても実はプロットそのものではない。実際に父をどうするかは結論が出ないし、哲夫の恋はもっとも肝心な恋の成就場面(哲夫が彼女を聾唖者と知った後で彼女と会い、あらためて告白し、彼女がそれを受け入れる場面)がない。それらはあくまで父と子供たちのやりとりの中で、家族の関係性を照射するエピソードとして登場する。

本作を本作たらしてめているのはテーマやストーリーではなく、丁寧な日常描写であり、場面場面の精密なディテールに込められた情緒の細やかさだ。地味だけれども、その豊饒さは比類がない。これは初見時に大きな衝撃を与える映画というより、観返すたびにディテールの豊かさと味わいが増していくタイプの映画である。

それから本作は小津へのオマージュともいわれていて、特に『東京物語』との類似が目立つ。母の一周忌の光景や、戦友会に出席するために東京に出て来て子供たちの家を泊まり歩く父、などの設定は確かに似ているが、だから本作を『東京物語』の焼き直しだと考えるのは間違いだ。たとえば哲夫と征子の存在は『東京物語』にはない、しかもきわめて重要な要素であり、本作を完全に別の映画として屹立させている。

それにしても、本作の主要登場人物である永瀬正敏、三國連太郎、和久井映見は三人とも素晴らしく良い。永瀬正敏は先に書いた通りの彼の魅力が完全に引き出されていて、若者らしい未熟さ軽薄さ、頼りなさがありながら、征子を伴侶として選んだという一点で実は気骨あるしっかりした男であることが分かる。とても魅力的な若者像を描き出している。

三國連太郎の名演はもはや語るまでもないだろう。頑固な父親であり、息子や娘に当たり散らしながら、実は誰よりも彼らのことを思っている。娘(浅田美代子)にふいに「送ってくれてありがとう」と言うシーンや、長男の家でビデオに映った孫たちを一心に見つめるシーンもさりげないながら心に残るが、なんといっても見どころは哲夫のアパートの夜である。

哲夫から征子を紹介された父は寝ようとしても眠れず、何度も起き出して哲夫にうるさがられる。しまいには歌を歌い出す。三國連太郎はあまり笑わず(満面の笑顔など一度も見せない)、どんな嬉しくてもその感情を表に出さず、抑制した表情のままその振る舞いですべてを表現する。

そして一人でまた誰もいない家に戻り、かつてこの家をにぎわわせていた家族の姿を幻視する。あの時の父の表情に涙を禁じ得ないのは、私だけではないはずだ。

そして和久井映見が演じる、聾唖の娘の可憐さはどうだろう。地味な制服を着て、工場の暗い一角にいつもひとり座って仕事をしている、静かな娘。

山田監督の映画にはいつもこんな風に、自分が今いる場所で、自己実現だ何だと力むこともなく、地道な仕事に黙々と、誠実に取り組む人々が出て来る。この聾唖の娘・征子も、そんな山田監督ならではの登場人物の一人である。彼女はハンディキャップを背負っているが、そのことで卑屈になっていないことはあの笑顔をみれば分かる。

彼女はただ、毎日を誠実に、丁寧に、つつましく生きている。この映画の中の和久井映見がどんな華やかな役柄を演じた時よりも美しく見えるのは、それが理由だと私は思う。そしてその美しさに惹かれ、自分の伴侶として迷わず彼女を選んだ哲夫も、そのことによって彼自身の価値を証明する。

征子を紹介された後の父があれほど幸福だったのも、頼りなかった次男がただ結婚するということだけでなく、彼女を選んだ息子を誇りに思ったからだろう。

さて、こんなに素晴らしい三人以外にも、本作にはまだまたいい役者が出て来るのである。筆頭は田中邦衛だ。彼はトラックの運転手で、いつも哲夫を乗せて得意先を回る。彼は常に愚痴っている50男だ。彼が口にする言葉の90パーセントは愚痴である。

初対面で哲夫にいきなり「若えもんはいいよな、なんでも好きな仕事ができてよ。50になってみろ、夜警ぐらいしかねえんだぞ」は序の口で、トラック運転しながら「(若者の車に向かって)遊びに行くなら電車で行けよ、何のために日曜があんだよ!」「クーラーもねえんだようちの車はよ!」「(政治を批判して)大変なことはおれっち運転手が全部しょいこんでよ!」「(得意先のゲートに積み荷がひっかかりそうになって)中途半端な高さなんだよ!」哲夫が雨の日に彼の自宅に行くと「ビショビショ降りやがって!」

いやもう、たまらない面白さだ。そしてなんといっても、征子が聾唖だと知って衝撃を受ける哲夫にリアクションするという、本作においてきわめて重要な芝居を受け持つのが田中邦衛なのである。永瀬正敏と田中邦衛の二人芝居、この場面は必見だと言っておこう。

それからこの人も忘れられない、いかりや長介。哲夫が働く鉄鋼会社のベテラン社員で、不愛想で口うるさいが、根は暖かくて面倒見がいい。「ビールは最初の一口だな」が口癖で、同僚たちにからかわれる。リアリズムあり過ぎである。

前述の通り、本作の豊饒さは細かい会話や場面の隅々に込められたニュアンスと情感にある。たとえば、父に向かって「兄ちゃんばっかりめんこがって」と叫ぶ哲夫。すぐ怒り出す生真面目な長男の大変さを思いやる父。よくできた礼儀正しい長男の妻が父に向ける微妙な冷たさ。長男と口論した翌朝ひとりでブランコに腰かけている父。自分は一人で死んでもいいのセリフ。そして哲夫が征子を見送る夜道で、別れ際にいう「きれいだなあ」。

そしてラスト、父がひとりきりの家の中で見る家族の幻は、近しい人々はやがて去り、そしてまた新しい人々が訪れることを示しているかのようだ。単純なハッピーエンドやアンハッピーエンドを超えた、実に含蓄のあるラストシーンだ。近しい人々との別れは寂しいが、新しく家族となる人々との出会いは喜ばしい。人生はそうやって、哀しみも喜びも呑み込んで進んでいく。

先に書いた通りさりげなく淡々とした映画であるため、重量級の大傑作として歴史に名を残すことはないかも知れないが、観た人に静かに、永く、いつまでも愛される映画だと思う。

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