『正しい日 間違えた日』 ホン・サンス監督   ☆☆☆☆☆

どれも似ているホン・サンス監督の映画なのに、しばらく時間がたつとまた新しいものを観たくなる。これもロメールに共通するホン・サンス映画の特徴で、本作は英語版ブルーレイを購入して鑑賞した。本当は日本語字幕で観たいのだが、日本ではホン・サンス映画のソフトは大部分絶版になっているのが大変残念だ。

さて、この映画もホン・サンスのメタフィクション趣味が炸裂した作品で、まったく同じ一連の出来事の微妙に違うバージョンが二つ並べられている。一連の出来事とは韓国の都市・水原(スウォン)を仕事で訪れた映画監督の二日間である。ホン・サンス監督作品には主要登場人物として映画監督が出て来ることが多く、それも彼のフィルムの私小説的性格を強めている要素なのだが、本作も例外ではない。

さて、手違いで一日早く水原に到着した映画監督は観光名所の宮殿に行ってアマチュア画家の娘と知り合い、お茶をし、彼女のアトリエに行き、寿司屋で彼女と酒を飲み、更に彼女の友人のバーに行って少人数のパーティーに参加する。その間ずっと、可愛らしい娘に惹かれた彼は色々と口説き文句を連ねる。翌日、自分の映画の上映会に出席して、水原を去る。

これが出来事の基本的な流れであり、いずれのバージョンでも同じだ。しかしながら、細部が微妙に違う。そしてより大事なこととして、水原を去る時の映画監督の心理状態がまるで違ってくる。前者は苦々しい幻滅とともに去り、後者は幸福な記憶とともに去る。それぞれのバージョンにはタイトルがついていて、前者は【あの時は正しく 今は間違い】、後者は【今は正しく あの時は間違い】、となっている。

では具体的に何が違うのか。最初のバージョン【あの時は正しく 今は間違い】では、アトリエで彼女の絵を見た時、彼はその絵をひたすら褒める。そして寿司屋で飲みながら口説く。そしてその場ではわりといい雰囲気になるのだが、その後バーのパーティーで友人交えて飲んでいる時に彼が既婚者であることが話題に上ると、娘は機嫌が悪くなり、ふてくされて居眠りをしてしまう。彼は一人寂しく帰る羽目になる。

翌日、映画監督は上映会で機嫌が悪く、支離滅裂なことを怒鳴るように喋って会場を出、モデレータの男を罵倒し、そのまま立ち去る。

二つ目のバージョン【今は正しく あの時は間違い】では、彼はまずアトリエで娘の絵を批判する。すると娘は「あなた何様なの!」と怒り出す。が、仲直りして寿司屋に行く。そこで映画監督は彼女に、おれはもう結婚しているが君を好きになった、と嘆き、泣き出す。そして道路で拾った指輪をプレゼントする。娘は悪い気はしない様子で、彼に好意的に振る舞う。

その後パーティーに行き、娘が眠っている間、酔っぱらった映画監督は服を脱いで全裸になり、彼女の友人たち(女性ばかり)から変態呼ばわりされる。彼は娘と一緒にバーを出て、彼女を家まで送るが、その帰り道、娘は彼が全裸になったことを面白がって笑う。娘はまた出て来るからと言って家に入るが、彼はしばらく待った後ホテルに戻る。

翌日、上映会に娘がやってくる。彼は礼儀正しく皆と挨拶した後、娘ともう一度親密な別れの言葉を交わし、去る。娘はひとり、彼の映画を観る。

二つのバージョンにおいて、結末の映画監督の心理状態は天と地ほど違う。前者は悪く、後者は良い。では、何がその違いをもたらしたのか。一見して分かるのは、バージョン2において映画監督は正直に振る舞っているということである。娘の絵を批判し、自分が既婚者であることを最初から告白する。ついでに娘の前でメソメソ泣くし、酔っぱらって全裸になったりもする。が、こちらの方が結果的に娘の好意を得る結果になる。監督本人もいい思い出を得ることができたし、おそらく娘は今後彼の映画を観続けるだろう。

それに対し、バージョン1では娘を怒らせないよう絵を褒め、既婚者であることを隠し、パーティーでも礼儀正しく振る舞うが、結果的に娘に嫌われてしまう。

では、できる限り正直に振る舞えというのが本作の教訓だろうか? そう取ることもできる。大体においてこういう状況で男が取りそうな行動は圧倒的にバージョン1の方で、バージョン2ではない。だからみんな失敗するんだよ、というアイロニーをここから読み取るのも、まあ間違いではないだろう。

が、映画をそんな単純な教訓に還元してしまうのもつまらない。ましてや曲者ホン・サンス監督の映画である。それに、気になる相違が他にもある。たとえば、バージョン1にはナレーションで流れる映画監督の心の声が、バージョン2にはまったく入っていない。これは何を意味するのだろう。もしかしてバージョン1は現実で、バージョン2は幻想なのだろうか。

それから、バージョン1では最後に娘の女友達(パーティーに参加していた)が上映会に現れ、彼に本を渡す。それから上映会のコーディネーターらしき若い女性とスケートリンクで遊び、最後にハグをする。これらはいずれもバージョン2にはない。

そういう意味では、もしかするとバージョン1が悪い結果でバージョン2が良い結果、と決めるのは早計かも知れない。どちらが良かったのかは、実はまだ分からない。というより、良い悪いを決めることはできない。なんせ、人生はまだまだどこまでも続いていくのだから。この映画の外にも、物語は四方八方に広がっていく。女性からもらった本や、コーディネーターの女の子が何につながっていくのかは誰にも分からない。

というような解釈でいいのかももちろん分からないが、要するに同じ出来事の二つのバージョンを並べてみせると、人間はこんなことを色々と考え始める、ということは確かだ。一つだけだと比較できないが、二つあるとどうしても比較し、そこから何かしら意味と違いを引き出そうとする。そこにイマジネーションの「遊び」が生まれる。もしこの映画がバージョン2だけの短篇映画だったとしてもそれなりに面白いだろうが、並べることでまったく違う面白さが生まれることになった。

つまり、それが何を意味しているかよりも、そこに何らかの意味を見出そうとする人間の心の働きを誘うことこそが本作の目的であり、アイロニーなのかも知れない。

さて、そんなわけで本作の面白さはこのストラクチャに依存するところ大だが、もちろん、ホン・サンス監督お得意のミニマリスト的日常描写もいつも通り冴えている。飲みながらぐだぐだ話す男と女の、オフビートな会話の妙を堪能できる。

そしてもう一つ付け加えるならば、この映画は大変後味がいい映画だ。おそらく、これまで私が観たホン・サンス映画の中でも、もっともロマンティックな余韻に浸れる映画なのである。

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