『母なる証明』 ポン・ジュノ監督   ☆☆☆★

『殺人の追憶』の素晴らしさに驚き、さっそくポン・ジュノ監督の『グエムル 漢江の怪物』と『母なる証明』をiTunesで鑑賞してみたが、私見ではやはり『殺人の追憶』が傑出していると思う。まあ、このレベルの映画を量産できたら神がかった天才だ。そうそういるもんじゃない。一時期の黒澤や溝口が思い浮かぶ程度だ。

が、決してポン・ジュノ監督を凡庸な監督と言うつもりはない。そもそも凡庸な監督に『殺人の追憶』は撮れない。『グエムル』はちょっとどうかと思ったが、この『母なる証明』は決して悪い出来ではない。テイストも『殺人の追憶』に通じるものがあり、世間の評判も悪くないようだ。

が、完全に個人的な意見を言わせてもらえれば、『殺人の追憶』に存在するマジックがここにはない。よく出来ているが、すべてを仕掛けと理屈に頼っている。『殺人の追憶』にあった論理を超えたがむしゃらな熱量が減退し、その代わり計算とあざとさが目立っている。もうちょっと詳しく説明します。

ストーリー構造はシンプルだ。読み書きができない、精神年齢が低い息子と母の母子家庭がある。母の心配をよそに、息子は不良とつるんでいる。町で殺人が起きる。夜道を歩いていた女子高生が殺され、これ見よがしに死体が放置されていたのだ。容疑者として息子が逮捕される。あの子がそんなことをするはずがない、と母は主張するが誰も聞いてくれない。母は自分で真犯人を見つける決心をする。手がかりを追い、容疑者を絞り込んでいく…。

母親が真犯人の目星をつけては外れ、また別の容疑者に目をつける、という試行錯誤のプロセスは『殺人の追憶』によく似ている。が、もちろん最後の結着の付け方は違う。『殺人の追憶』では結着がつかないことが結着だったが、本作では、ある「意外な真相」に辿り着く。その真相の捻り方がもちろん、この映画の最重要ポイントである。

ネタバレになるのでそこには触れないが、私が考える本作の弱さは二つある。まず、終盤の意外な真相に到達するまでのストーリー展開や積み重ねられるエピソードが常套的で、切れ味が鈍い。たとえば母親が被害者の葬式に行って遺族に罵倒され、息子はやってないと叫ぶ。この手のストーリーにはつきもののシーンだが、その見せ方があまりにも直球で、芸がない。従って既視感が強く、鈍重に見える。

もともとポン・ジュノ監督は斬新な視点やシャープな切り口で見せる監督ではなく、従来からある映画のフォーマットをうまく使い、そこに力とエネルギーを注入することによってインパクトを増す、剛速球型の作家である。『殺人の追憶』でもそうだったが、この『母の証明』でも、ヒッチコック以来のサスペンスものの伝統的手段が多く使われている。もちろんそのこと自体は悪くないが、工夫なしにやり過ぎると紋切り型になってしまう。本作ではそう感じる部分が比較的多かった。

もう一つは、「意外な真相」の捻り方である。これは多分ミステリ好きな人なら予想がつく結末で、人間というものに対するブラックな見方、つまり性悪説がベースになっている。つまり、意地悪な捻り方だ。まるで監督が観客に向かって「どう、ショッキングでしょ? でも人間ってこんなもんじゃない?」とドヤ顔で問いかけてくるようだ。言ってみれば、悪意を秘めた風刺である。これが、かなりあざとさを感じさせる。

もちろん、ブラックな捻りによって冴えた映画ができる例もある。が、観客の裏をかくためだけにこれをやるとうまくいかない。「鬼面人を驚かす」類の捻りになってしまう。この映画では、結末のインパクトを評価する観客もいるようなので成功しているという見方もあるだろうが、私が見たところやり過ぎである。

それは冒頭の、母が野原でダンスするシーンからも伝わってくる。あのシーンはもちろん、リアリズムではない。どう考えても奇矯な絵であり、その奇抜さで観客を驚かすことが目的だ。そして監督がこのシークエンスを重視し、かつ自信を持っていることは、終盤同じダンスシーンがもう一度出て来ることからも分かる。

そして更にダメ押しとして、ラストシーンでは母がバスの中で踊り狂う。狂気を感じさせるあの演出はもちろん、その直前に明かされた「意外な真相」のブラックさの強調である。確かに、インパクトはある。が、ここまでくると、監督は「悪意ある風刺」を見せびらかし、「鬼面人を驚かす」ことを狙っていると思わずにはいられない。

この「悪意ある風刺」はこの映画全篇の基調のトーンとなっていて、他にも、たとえば弁護士がカラオケ屋に母を呼び出して悪ふざけをするシーンなどに明らかだ。弁護士への風刺色が強すぎて、ブラックなコントみたいに見える。

確かに『殺人の追憶』でも警察の拷問まがいの尋問描写に風刺色が強く出ていたが、そこには風刺と同時に警察のがむしゃらさの表現でもあるという多義性があった。主人公である刑事たちの絶望感の表現にもなっていたのだが、本作ではそこまでの多義性がない。

それにポスターではあの結末を「人間の真実」と称しているがそれほどのものでもなく、多分意地悪なミステリを読みなれている人なら容易に予想がつくと思う。だから捻りのための捻り、風刺やブラックの見せびらかしに思え、あざとく感じられる。

また、あの「意外な真相」を最大限に活かすならバス停の母と息子の会話だけで十分だったと思う。息子が母に「忘れ物」を渡すシーンだが、あのシーンは良かった。あれで息子と母の関係が一気に複雑化し、観客の心胆を寒からしめる。ミステリの結末としても秀逸だ。あれだけでいいのである。

その後母がバスの中で踊り狂ったりする、「鬼面人を驚かす」ような、そのわりに陳腐なシーンはいらない。目論見が見え透いている。「どう、怖いでしょ?」という声が聞こえてきそうだ。あざとい計算というのはそういう意味である。

というわけで、以上、私が気になったところをちょっと強調して書いてみたが、前述の通り本作の出来は決して悪くない。ラストの捻りも、驚いた、面白かった、という人も多数いるようなので、好みの問題だと思ってもらって構わない。

が、ポン・ジュノ監督は熱量と剛力で見せる作家だと思うので、個人的にはあんまりこの路線に行って欲しくない。『殺人の追憶』は一見ブラックに見えるし、拷問も辞さない警察の描写に「風刺」色もあったが、本質はそこではなかった。人間の営為を超えた不条理、そして迷宮のごとき世界への畏怖が崇高の域にまで高まることによって、観客を圧倒したのである。

だからポン・ジュノ監督にはニヒリズムや厭ミス路線に行くのではなく、人間の尊厳を真正面から力いっぱい描く映画を撮って欲しいと、そう思うのであります。

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