『最終講義』 内田樹   ☆☆☆☆☆

最近内田樹氏の著作を立て続けに五、六冊読んだ。『困難な成熟』を読んだら面白くて止まらなくなってしまったのだが、この人は元・神戸女学院大学教授(今は名誉教授)で、フランス文学者で、エマニュエル・レヴィナスに師事し、合気道家でもあるという、なかなかユニークな経歴の持ち主だ。著作家になったのは自分のブログがきっかけらしい。

彼の思索は、私にとって衝撃的なほどに新鮮だった。物事の本質をつく鋭さと、トピックの境界線を越えて広がっていくスケール感と、先人の叡智への敬意がベースとなる揺るぎない倫理性にやられた。私の体に染みついた物の見方を根底から覆すような、奥深い、ほとんど啓示的といってもいいくらいの根源的な洞察に触れた気がした。

もしかしたらそれは彼のオリジナルではなくレヴィナスや他の先人たちの思索なのかも知れないが、それでいっこうにかまわない。私にしてみれば同じことだ。内田樹氏自身も、叡智や知見を「パスする」ことの大切さを説いている。

さて、彼の本を何冊か読んでみたところ本によって趣向が違い、特定のテーマを掘り下げたもの、短いエッセーを集めたもの、時事的なもの、自伝、講義集など色々だ。やはり私には特定のテーマを掘り下げたものが読み応えがあって面白いが、その意味でこの『最終講義』は彼の著作の中でもおススメである。タイトル通り講義集で、一章が講義一つになっている。当然一章の中では特定のテーマが掘り下げられる上に、講義なのでとても分かりやすい。

それに内田樹氏自身が書いている通り、講義にはその時のテンションや観客の反応でドライブがかかる、喋っている自分でも思いもよらないことを言う、ということが起きる。そういう意味でとてもスリリングだし、普通のエッセー集よりもどこかぐっと乗り出してくるような熱さを感じる。

本書には第一講から第六講までに加え文庫版付録として追加の講義が一つ、合計七講が収録されていて、その中には神戸女学院大学を辞める時の講義も含まれている。講義ごとにテーマが違うが、大体において市場原理がすべてを支配することへの警鐘、ビジネス用語で教育や政治を語ることの危険性、などが一貫したテーマになっている。いわば反ビジネスマン、反市場主義である。

内田氏はどうやら、市場主義があらゆるものに適用されるようになったことが現代社会に歪みをもたらしていると考えている。以下に、全部は無理だが、特に印象に残った部分を紹介したい。

第一講は神戸女学院大学を辞める時の講義だが、この中で内田氏は神戸女学院大学の校舎であるヴォーリズ建築の素晴らしさについて語っている。校舎内が薄暗いため、扉を開いて外へ出た時にはっと覚醒する感覚を味わえるし、建物の構造に驚きがある。つまり、建物自体が「学ぶ」ことの隠喩になっていて、生徒たちはそれを肌感覚として体得することができる。これほど素晴らしい学びの場所はない、と内田氏は賞賛している。

ところが、ある機会にシンクタンクに依頼して建物の価値を査定してもらったら、価値ゼロと言われたという。なぜなら、シンクタンクは建物の価値を地価と耐用年数だけで測るからだ。そこで日々読み、教え、学ぶ人間の身体感覚というものは、まったく考慮されなかった。あるコンサルタントは「地価の高いうちに売り払って、三田あたりに移転すればいいのに」と言い放ったそうだ。これを聞いて内田氏は「市場原理主義はダメだ」と深く実感したという。本当に大事なものを、市場主義は評価できない。第一講ではなんといってもこのエピソードが印象的だった。

第二講では、自分がWIKIPEDIAで「旧仏文学者」と書かれているのは結構深い、という話から始まり、本物の学者とは何か、教えるとは何か、という考察が展開する。この章のメッセージを煎じ詰めれば、学者は内輪のパーティーを楽しむ(分かる人たちだけ集まって、サロン的なまたは特権者的なやりとりを愉しむ)のではダメで、とにかく新しい世代に向かってパスを出さなければならない、ということに尽きる。内田氏はこれを自分がレヴィナスと会った時のエピソードを踏まえながら、実感を持って語りかけてくる。

第三講は、右肩下がりの時代の日本について、である。もはや世界に取り残されていく一方の日本は、これからどこへ向かって進むべきか。現代の日本人全員にとって深刻な問題だ。内田氏は日本の医療、接客サービス、アニメなどエンタメ領域の強みに触れた上で、本来ならば日本は教育立国になるべきだった、と言う。しかし残念なことに、もはや日本の医療と教育は死にかけている。

そして、それを招いたのは政治である。政治と、市場原理主義をすべてに適用することが正解という思い込みである。生徒を集めた学校にはカネをあげます、という政府のやり方は、本来知的なものに対する敬意を養わなければならない時に、金に対する敬意を強化しようとしている。なぜそのことが分からないのだろうか、と著者は問う。

第四講では、倍音的作家について語られる。倍音的作家とは、これは私のことを書いている、と読者に思わせる作家のことである。内田氏は倍音的作家の例として太宰治、村上春樹を上げ、なぜ彼らが書くものが読者に「私のことだ」と思わせるのかを分析する。ごく簡単に言うと、作家の中に複数の人格がいてそれらが同時に語ることで、倍音的文体となるそうだ。

そこから始まって、教育とはつまるところ「おせっかい」であり、昨今の父兄や生徒や政治が考えるように利便性や効能ではない、つまりこれこれのリターンがあるから投資するというものではない、と発展していく。つまり、学校はビジネスではない。学校をビジネスマンの言葉で語ってはいけないし、ビジネスマンに教育をさせてはいけない。学校とは最大の利便性に標準化・最適化されるべきものではなく、多様性が命だ、と著者は言う。

次はいよいよ本書のハイライトというべき第五講だが、長くなったのでここでいったん稿を改めます。

(次回へ続く)

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