『最高殊勲夫人』 増村保造監督   ☆☆★

日本版DVDで鑑賞。1959年公開作品。増村監督+若尾文子のロマンティック・コメディということで『青空娘』的な映画を期待したのだが、私見では『青空娘』の面白さには及ばなかった。テイストはよく似ているが、ストーリーの力強さや熱量で見劣りする。

まあ要するに、50年代日本が舞台のトレンディ・ドラマだと思えばいい。若尾文子と川口浩がお互い好きなのに、二人に強引に結婚を薦めてくる姉夫婦に反発して「私たちは絶対結婚しない」と二人して決めて、そこに他の男女が絡んできて色々あるという、簡単に言うとそんな話である。

金持ち一家の息子にして一流企業社員の川口浩には、前衛生け花や書道やフェンシングなど色々なことに手を出す、活発な社長令嬢のフィアンセがいる。一方、姉の夫の秘書になった若尾文子には会社の男性社員たちやテレビのプロデューサーが次々とアタック(<死語)してくる。そんな中、川口浩と若尾文子も(結婚しないと言っているくせに)時々会ってワチャワチャする。

というメインプロットに加えて、妻の尻に敷かれている姉夫婦の夫が浮気する話や、若尾文子の父親の定年退職話などがサブとして華を添える。多少時代設定とキャストを変えれば、バブル期のトレンディ・ドラマとして十分通用する筋書きだ。こういう話はいつの時代も需要があるのだな。

良いところから言うと、まずテンポが良い。スピーディーにどんどん話が進む。それからエピソードは色々と盛り沢山で、華やかだ。更に、今の観客の目から見るともう完全に別世界状態の当時のカルチャーが楽しい。ロカビリー・バーなんてのが出て来る。

次に不満点。そもそも若尾文子と川口浩が結婚するかどうかという他愛もないストーリーなのだが、まあそれはいい。他愛なさは『青空娘』も一緒だ。が、『青空娘』にはそれをカバーする特徴というか強い個性、たとえば「シンデレラ」の翻案とかキッチュな劇画っぽさがあったが、『最高殊勲夫人』にはそういうものがあまり見当たらない。トレンディ・ドラマ的な常套があるばかりだ。

つまり「女中扱いされる血のつながった娘」やら「母親探し」やら「継母いじめ」やら「教師と生徒の恋」やら、過剰な物語要素がガンガンぶち込まれていた『青空娘』に比べると、本作は、都会のオフィスを舞台にしたロマンスものという賑やかさだけで、物語そのものが痩せている気がする。それに、そのロマンスにおける「障害」は、ただ「姉夫婦が薦めるのが気に食わない」というだけ。とても弱々しい。

が、おそらく、90年代を席巻したトレンディ・ドラマはそんな「弱々しさ」こそが都会的でかっこいい、という価値観の上に成り立っていたジャンルなのだ。強烈なドラマ性なんてむしろかっこ悪い、「母親探し」や「継母いじめ」なんて暑苦しい劇画調はダサい。逆に、軽くてどうでもいいようなノリこそがクール、という時代の気分の中で生まれたもの。だとすると、この映画はやっぱりその先駆けだ。そしてもちろん、時代の気分で生まれたものは時代を超えることはできない。

もう一つの不満点としては、心理描写が物足りない。果たして若尾文子は、本当にあの男子社員と結婚するつもりだったのか。あの男子社員だけでなくみんなに気を持たせたのは一体どういうつもりだったのか。川口浩の「結婚する気もないくせに」は、どこまで当たっていたのか。

そのあたりの彼女の心理がさっぱり分からないので、観客はただ通り過ぎていくエピソードを眺めることしかできない。これじゃ外から覗いているただの野次馬だ。登場人物たちの心理を理解し、共感し、あるいは反発し、事態の動きにつれて緊張したり弛緩したりするという、心理の機微を味わうことができない。従ってスリルがない。

こういうストーリーなので当然、二人がお互いの気持ちを打ち明け合うシーンがクライマックスとなる。そして二人は結ばれる。なぜ最初からそうしなかったのか不思議でしょうがないが、これこそトレンディ・ドラマの定石だ。

思えば90年代に流行ったトレンディ・ドラマはほぼ全部これで、お互い好きな二人がなぜか意地を張ってそう言わず、そのため色々とすれ違いが生じて勝手に悩み、周囲の男女はそれを誤解して横から余計な告白をしたり間違いが起きたりして事態がややこしくなる、というのが黄金パターンだった。

ストーリーについてはそんなところだが、前述したように今の観客の目に一番目立つのは、当時のカルチャーの別世界ぶりだろう。特に言葉遣いへの違和感がものすごい。「私たちビジネスガールは」「秘書なんて、デラックスじゃない」「それ、痛快ね」など、驚くべきフレーズの連発だ。当時はOLのことをビジネスガールと呼んでいたんだなあ。

若尾文子の父親役である宮口精二のセリフにはほとんど違和感がないので、やっぱりこれは当時の若者コトバへの違和感なのだろう。いつの時代も、その時一番新しいものほど時間がたつと古びて感じられるものだ。

また、ギャグにも時代の賞味期限がある。当時は「これが笑える」というものも、普遍性がないと今の観客にはちっとも笑えない、ということが起きる。たとえば小津の『お早よう』なんて今観てもあちこちで笑えるし、黒澤の『椿三十郎』にも秀逸なギャグがあって今の観客にも通用すると思うが、本作のギャグは、少なくとも私はほとんど笑えなかった。普遍性がないって具体的にどういうことだ、と聞かれると答えるのが難しいが、おそらく当時の時代のノリに寄りかかっている、というようなことだろうと思う。

ただ一か所だけ笑ったのは、川口浩の友人のプロデューサーが若尾文子にプロポーズし、電話でフラれるシーン。若尾文子が断ると、「待って下さい、直接会いましょう。明日はどうですか? 明後日は?」と食い下がるその横から、アシスタントが「本番15秒前です」などとチャチャを入れる。するとプロデューサーは「ああ面倒くさい。諦めます。お幸せに」

そしてもちろん、演出のセンスも今とは違う。昔の映画を観る時はこれが非常に微妙で、どこまでが洒落でどこまで真剣なのかよく分からない。たとえば本作では終盤近く、若尾文子に失恋した男子社員がロカビリー・バーの舞台に飛び入りしてロカビリーを熱唱するシーンがある。あれはどこまで心からカッコイイと思ってやってるのか、あるいはギャグなのか、そのあたりがよく分からない。

が、そういうセンスのギャップを感じながら鑑賞するのも、古い娯楽映画を観る愉しみの一つだろう。そういう意味では、本作は結構愉しみがいのある映画なのかも知れない。

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