『生けるパスカル』 松本清張   ☆☆☆☆

またしても松本清張だが、とりあえず読みたいものに迷った時に松本清張は重宝するのだからしかたがない。どれをとってもそれなりの面白さが保証されていて、しかもいくら読んでもまだ未読本がある。ありがたいことだ。松本清張を全部読み尽くしたって人はいるのだろうか。

さて、本書に収録されているのは中篇二つである。「六畳の生涯」と「生けるパスカル」だが、どうやら最近光文社から出ている「松本清張プレミアム・ミステリー」シリーズにはこういう中篇二篇収録のパターンが多いらしい。松本清張の中篇は面白いので、私は大歓迎です。表題作の「生けるパスカル」は、宮部みゆき編集のアンソロジーにも採られていた傑作である。

さて、まず未読だった「六畳の生涯」だが、これは煎じ詰めると年寄りが家政婦にのぼせるという、老いらくの恋の話である。かなりの異色作だと思う。もちろん一応ミステリなので、最後は殺人事件とその真相が主題になってくるが、それまでの大部分は隠居して息子夫婦と一緒に暮らす元医者の志井田が特に美人でもない家政婦に恋をする、その心理描写で埋め尽くされている。

志井田は通ってくる家政婦のトミに世話してもらううちに彼女に欲望を覚え、それが恋愛感情にまで発展し、きっと彼女も自分を好きなはずだと考え、夫もいる彼女と一緒に暮らすことを夢見始める。しまいには彼女をつけ回し始める。という、老年の常軌を逸した恋の心理を精密なリアリズムで描き出していく。

トミが決して美人じゃないというのもポイントで、容姿だけなら看護婦として通ってくるやせた女性の方が整っているのだが、彼女はお堅くて、トミの方がちょっと色っぽい軽口にもつきあってくれるのである。それで親密感が増し、やがて「この女もおれに好意を持っている、これならいける」と思い始める。

この志井田の心理描写には説得力があり、あれこれ考えて行動をエスカレートさせていく様子がとてもスリリングだ。読んでいる方は「おいおい、いい加減にしろよみっともない」と思うのだが、本人はきわめて真剣なのだ。歳をとってこうならないよう気をつけたいと思う。

で、途中で毒薬が絡んでくる。これがミステリとしての伏線だが、表で進行する老いらくの恋の裏側で、実はもう一つの事態がひそかに進行していたことが後で分かる仕掛けになっている。一見地味だが、わりと凝った作品だと思う。例のやせた看護婦がだんだん色っぽくなってくるなんてのも、年寄りの人間観察眼は侮れないなと思って読んでいると、実は他のことの伏線になっている。

ラストで真相をはっきりさせず、ちょっとリドル・ストーリー的なオチになっているのも面白い。

さて、もう一つの「生けるパスカル」は画家の世界を舞台にしたミステリ中篇である。要するに、妻の病的な嫉妬と激怒の発作に苦しむ画家の夫が耐え切れず殺人を計画するという、倒叙推理ものだ。

が、同じように妻に苦しめられたピランデルロの小説を重要なモチーフとして持ってくるところが松本清張らしさだ。これでぐっと話に奥行きが出るし、おまけに重要な伏線にもなっている。文芸の世界に造詣が深い松本清張でなければ、こんな深掘りの仕掛けはできないだろう。

警察が登場して典型的な倒叙推理になる後半も面白いが、やはりこれも「六畳の生涯」と同じように、犯罪が起きるまでの物語に比重が置かれている。妻の嫉妬の原因として画家と地方都市のバーの娘とのエピソードが出て来るが、これだけでもちょっとしたドラマになっている。

ちゃんと生々しさがあり、ごつい手ごたえがある。ただの薄っぺらい説明的エピソードではない。短いエピソードでも登場人物の心理の揺らぎや葛藤が実にリアルなのだ。描写は簡潔だが厚みがある。やっぱりこれが松本清張最大の武器だと思う。

そして犯罪が起き、倒叙推理パートに突入するが、この部分は場面場面をドラマ風に描写するのではなく、ルポライター風に作者が警察の動きを解説する形になる。いわばちょっとズームアウトした形になり、主人公である画家の心理描写はほぼなくなる。肝心の殺害シーンも省かれている。

そんなわけで殺害までの心理をみっちり描く前半に比べて急に淡泊になる印象だが、この淡々とした報告調と前半の濃密描写との対比も本作品のユニークな味になっている。

警察側も特定の刑事が登場したりはせず、「警察は~と考えた」という風に無機質な書き方がされている。しかし松本清張の「警察」はとても疑り深く、注意深く、どんな不自然さも見逃さない恐るべきプロフェッショナル集団である。この中篇の結末の決め手も、そこまでやるかというぐらい緻密な捜査の結果導き出される。だから犯人の目からすると実に不気味な存在であり、私は同じ倒叙推理ということで、ロイ・ヴィガーズの『迷宮課』シリーズを思い出した。

以上、読み応えのある渋めの中篇二つのパッケージ。松本清張ファンなら見逃せない一冊だ。

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