『刑罰』 フェルディナント・フォン・シーラッハ   ☆☆☆☆☆

シーラッハの新作短篇集を入手。アマゾンの紹介文は「短篇の名手が真骨頂を発揮した最高傑作!」とかなり煽り気味だ。確かに一作目の『犯罪』はまごうかたなき大傑作だったけれども、私見ではこのところ微妙だったシーラッハ、「最高傑作」という売り文句には眉に唾をつけて読み始めた。

まずは冒頭の「参審員」。孤独な人生を歩んできた女性がある裁判の「参審員」に選ばれる。夫が妻を繰り返し虐待しているというDV事件だが、彼女が被害者に共感して涙を流したことが裁判に意外な影響を与える。「参審員」は事件に個人的感情を持ち込んではならないとのルールがあるのだった…。

最後の1ページを読んでめまいがした。物語が爆発したような、あるいはふいに切断されて鮮血が迸ったかのような衝撃。シーラッハの簡潔で冷厳な文体がとてつもない効果を上げている。おまけに、もっといい話で終わらせることもできそうなアイデアなのに、ものすごい捻り方と容赦ないアイロニー。いや驚いた。

そして次の「逆さ」、これがまたすごい。「参審員」とは違ってミステリ興味満点で、最後に意外な謎解きが待っている。どう考えても妻が夫を殺したとしか思えない状況で男が死ぬ。妻は殺人は否認する。その弁護をすることになった弁護士の物語だが、闇社会の凄腕仕事人も登場し、ノワール風でもある。そしてまたしても、結末の恐るべき切れ味。

この時点で考えを改めた。これは確かに、あの『犯罪』を超える出来の短篇集かも知れない。

最後まで読んでみるともちろん出来不出来はあって、すべてがこの冒頭二作と同レベルではない。この二篇のインパクトはやはり大きい。が、これがピークというわけでもなく、総合すると、本書は第一短篇集の『犯罪』に勝るとも劣らないクオリティと言っていいと思う。ということは、やはり大傑作ということだ。シーラッハはやはり本物の作家だった。

他の収録作をざっと解説すると、私が特にクオリティが高いと思ったのは「隣人」「ダイバー」「奉仕活動」「テニス」。どれも怖い短篇だ。「参審員」と同じく大部分は淡々と冷徹な文体で記述されたあげく、ごく簡潔な仄めかしがこの上なく劇的な効果を上げる。

「湖畔邸」「リュディア」も悪くないが、前述の作品と比べるとちょっと落ちるかなと思う。ちなみに「リュディア」はラブドールを愛する男の復讐譚という、珍しい題材。

珍しいといえば「小男」もそうで、シーラッハらしからぬコミカルな結末が待っている。しかし洒落ていて、ピリッとエスプリがきいているのがやっぱりシーラッハだ。暗く重たい読後感の短篇が多い中で、ちょうどいい息抜きになっている。

それからとても短い、掌編というべき短篇もいくつか収録されている。これまでシーラッハにはなかったタイプの作品じゃないだろうか。「青く晴れた日」「臭い魚」などだが、これらの掌編ではシーラッハの十八番であるプロットの捻りは極力抑えられ、スケッチのようなちょっとした物語がさりげなく終わっていく。ドラマは水面下に隠されていて、かすかに仄めかされるだけ。が、独特の余韻を残すのはやはり同じだ。

それから、特筆すべきはラストの「友人」。これだけ他と違って「私」という一人称で書かれている。題材は破滅した「私」の友人のこと。痛ましい人生のドラマであることは他の収録作と変わらない。ではなぜこれが特別かというと、「私」つまりシーラッハが作家になった理由がここで明かされるのである。法律や裁判の手が届かない人間の痛みや苦しみを書かねばならない、とシーラッハは感じ、それが彼を作家にした。少なくとも、この短篇にはそう書かれている。

そしてまた、この短篇ではシーラッハが繰り返し描く世界の暴力的なまでの不条理が、くっきりと分かりやすい形であらわれている。この短篇の主人公である「私」の友人は言う。「罪はおかしていない。だけど、罰を受けるしかないんだ」

またしてもめまいを誘われる。

ちなみに、本書の収録作品ではすべて法律が裁ききれなかった罪と罪人たちが扱われている。それぞれ何らかの理由で、裁判という正義のシステムからこぼれ落ちた事例たちだ。言ってみれば法律の無力が描かれている。あるいは、犯罪を描きながらその中心に司法制度がない、と言ってもいい。

従って、どの短篇も犯罪を扱っていながらいわゆるミステリとはどこか違う。司法による解決や、裁きや、一件落着がないからだ。だからスッキリするものなどひとつもなく、むしろ矛盾や不条理や理不尽が顕著。だからこそ、この作品集はミステリというジャンルを超えた文学作品になり得ている。

それにしても、シーラッハの文章の強靭さには感嘆するばかりだ。簡潔でクールに徹していながら、実に独創的だ。もちろん本職なので法律の知識量はハンパなく、それらが十分に物語に盛り込まれているのだけれども、決して冗長や説明過多にならない。厳しく抑制されている。

他の作家、特に法律家としての知識を生かしてミステリを書こうという作家だったら、もっと専門知識を詳述し、ひけらかし、解説したくなるものだと思うが、シーラッハは違う。それらは完全にミニマムに留められている。これはミステリを書いている法律家の態度ではなく、あくまで小説家の態度、創作者の態度だと思う。

シーラッハが本物の小説家だというのはもちろん、そういう意味でもある。

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