『あと千回の晩飯』 山田風太郎   ☆☆☆★

山田風太郎のエッセイ集『あと千回の晩飯』を読了。

ご存知の通り、山田風太郎氏の小説はとにかく極彩色でアクが強く、司馬遼太郎氏のようなアカデミックな高尚さには欠ける代わりに、毒々しい麻薬的な面白さで読者を魅了する。私はこの人の忍法帖シリーズ(特に『甲賀忍法帖』『柳生忍法帖』『忍法八犬伝』)、それから『八犬伝』『妖説太閤記』あたりが大好きで、この荒唐無稽に徹した至高のエンタメには昔から心酔し、感服しきっている。

そこで最近エッセイも読み始めたわけだが、当然ながら、小説とはやや趣きが違う。極彩色でエログロありの忍法帖と比べると、エッセーは枯淡の境地というか、飄々としてまるで淡麗な日本酒のような味わいだ。だから、もしあなたが風太郎小説のあの強烈さを期待すると物足りないかも知れないが、これはこれで大変心地よい。それに、一見飄々とした中にもやっぱり只者じゃないしたたかさが、時々透けて見えたりする。

さて、本書は風太郎氏73歳以後のエッセイで、タイトルからも察せられる通り、老い、病気、そして死が中心テーマになっている。気が滅入るエッセイだなと思うかも知れないが、実はそうでもない。さっきも書いた通り飄々としていて、肩の力が抜け、さりげないユーモアさえ漂い、達人の域とはこういうものかと思わされる。そして、私みたいにもう五十を過ぎてこれから老年期に入っていくという人間には、大変ためになる話が色々と出て来る。

まず病気の話だが、風太郎氏が自分で持っている病気として白内障、書痙、前立腺肥大あたりが俎上にのぼる。まあ70歳を越えていればそんなものだろうと思うが、だから健康に気をつけているかというとそうでもなく、酒は毎日飲む、たばこは立て続けに吸う、という具合に豪快な毎日を送っていらっしゃる。さすが忍法帖の作者である。

で、ある日、あまり困らないので放っておいた白内障をなんとかしようと病院に行ったら、いきなり重度の糖尿病と診断され、あなたはもう死ぬか盲目になるかどっちかです、と宣告されてしまう。ここで山田風太郎氏、死を覚悟する。

念の為断っておくが、これは連載エッセイなので、病院に行くのも診断結果もリアルタイムだ。つまり、事態の進行がその都度エッセイに書かれているわけだ。だからこの文章は、本当にもうすぐ死ぬ可能性大と思いながら書かれたものなのだ。

驚くのは、この時の風太郎氏の平静ぶりである。もちろん彼ほどの作家が筆を乱すとは思わないが、多少深刻ぶったり力が入ったり、なんとなく読者向けに「泣ける」文章を書きたくなるのが普通じゃないかと思う。ところが、風太郎氏はまったくそれまでと変わらない。力の抜け具合も同じ、飄々としたユーモアもいつも通り。そして「最愛の人が死んだ夜にも、人間は晩飯を食う」などと、優しさと皮肉っぽさを混ぜ合わせたような洒落を飛ばしている。

そして、緊急入院するのでいったんこの連載は終わります、でも数カ月後にはケロッと治ってるかも知れないし、などと読者の心配を和らげるような書き方をしている。

いやまったく、これには敬服するしかない。常人ならどうしても大仰になったり、深刻になったり、多少は芝居がかった文章になるものだ。悲劇の主人公を気取るまでいかなくても、何か遠い目をして語っているような文章になる。そしてそれを読んだファンが、「号泣した」「ボロボロ泣けた」なんてツイートをする。

が、それがまったくない。完全な平常運転である。私はそこに、真の作家魂を見た。

さて、入院すると今度は、糖尿病は食事療法で治るがあなたはパーキンソン病だ、と言われる。そして体の総点検後、網膜損傷の治療、食事療法による激ヤセ、車椅子生活など色々大変なことを潜り抜けて、なんとか回復する。そして、また飄々とエッセイを再開するのである。

しかし、とりあえず命拾いしたと言っても、もう70いくつの風太郎氏が死を意識しないわけはない。本書に繰り返し出て来るのは、長生きは果たして幸せだろうか、という問いである。著者は冗談まじりに政府による安楽死計画のアイデアを披露したり、著名作家の死に際のボケっぷりを文献を踏まえて紹介する文章も書いているが、程よいところでキレイに死ぬのがいい、という美学があるのは間違いない。そしてその時はもう近いという認識も、確実にある。

その一方で、老境に至っても案外寂寥とか焦燥を感じないものだ、とも書いている。心身ともに軽やかな風に吹かれているような感じになった、というのだ。

これにも深く感銘を受けると同時に、なんとも羨ましいと思わずにはいられなかった。もはや死を身近なことと感じながら、気分爽快に暮らしているのだ。そこまで生きれば自然とそうなるだろう、と若者は思うかも知れないが、世の中には「五十超えたらみんな鬱だと思った方がいい」なんていう説もある。実際に、以前読んだネット記事によると、五十前後になって「残り少ないおれの人生このままでいいのか」と悩む中高年が多いという。

心身ともに軽やかな風に吹かれるように晩年を過ごせたらどんなに幸せだろう、と誰だって思うに違いない。そうなるにはどうすれば良いのか。

そんなことは本書にも書いてないので分からないが、一つ思いつくのは、風太郎氏は自分の人生でやるべきことはやったという思いがあるだろう、ということだ。有名な作家になってステータスを得たということじゃなくて、表現者としてまだまだ書き足りない思いはあるかも知れないが、しかしベストを尽くした、という心境なのではないか。

死が目前に迫った時に心身ともに軽やかな風に吹かれるには、その心境に至れるかどうか、が鍵のような気がしてならない。

その他にも、風太郎氏が座右の銘というものを持たず、今わの際に言い残す一言半句も持たない、という話にも感心した。作家ともなれば、普通は何かしらカッコいいことを言いたくなるだろう。でも無理してひねり出したりせず、さらっとこんなこと書けるのがすごい。

それから、自分の意見が頭に浮かんだ時も「本当にそうか?」という疑問を常に感じているとの話も印象的だった。

最近、ブログやツイッターでは自分の意見を箴言や名言みたいにきっぱり言い切る人が頭がいいと思われるようだが、ミラン・クンデラの「小説的思考」論、村上春樹の「小説家には早々に物事の結論を出さない人が向いている」発言、内田樹の「急いでシンプルな解を求めないことこそが重要」発言など、むしろその反対のことを言う人も多い。この風太郎氏のエッセーも、やはりそうだった。

真の知性とは、常にためらいを持つものではないだろうか。問い続けること、固まってしまわないことが、実は一番大切なのではないか。最近そう思えてしかたがない。

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