『掃除婦のための手引き書』 ルシア・ベルリン   ☆☆☆☆☆

岸本佐知子氏の訳ということで興味を持ち、ルシア・ベルリンという作家の短篇集を入手した。エキゾチックなヨーロッパ風の名前だが、アメリカ人生まれの女性作家である。表紙が著者本人のポートレートで、ご覧の通り女優並みの美貌だ。岸本氏は美人過ぎて作者だと分からないんじゃないかと心配し、中にもう一枚写真を入れたという。ちなみに、美しい装丁はクラフト・エヴィング商會によるもの。

本邦初の短篇集だそうだが、レイモンド・カーヴァーやリディア・デイヴィスに影響を与えながらも生前マイナーな存在だった著者は、2004年の逝去後再評価が著しいという。リディア・デイヴィスのエッセイが巻末に収録されているが、まさにベタぼめ、手放しの絶賛である。

本書には短篇が24篇収録されていて、どれも著者の人生に題材をとった自伝的小説だ。彼女の作品世界の中心にあるのは彼女自身の家族であり、多くの短篇に彼女の母親や妹サリーが登場する。が、決して自伝そのものではない。むしろ、これ以上ないほどオリジナルな創作だという印象を受ける。ルシア・ベルリンは自分の人生で起きたことを題材にして、それを言葉の力で異化し、膨らませ、発酵させ、結晶化して、その中から短篇小説というオブジェを切り出している。そんな感じがする。

これは、どちらかというと詩人の書き方に近い。私は勝手に小説家には大きくライター型と詩人型があると思っていて、ライター型は題材を的確に要領よくレポートするように書き、詩人型は自分のイマジネーションを形にするために書くが、この二者では言葉の使い方がまったく違う。ルシア・ベルリンは、典型的な詩人型である。

彼女が自分の人生の中から拾ってくる題材とは何か。ガンで死んだ妹や苛烈だった母親、あるいは自分がつきあった男たち。かつて住んだ場所であるテキサス州エルパソ、チリのサンチャゴ、ニューヨーク、メキシコ。それから掃除婦や教師の仕事、アルコール中毒のこと、などである。中でも、ガンで死んだ妹サリーは著者のオブセッションであるかの如く、本書収録作の中に何度も何度も登場する。

こう書くと、著者の経歴が波乱万丈であることもあって、そういった人生のドラマを生々しくリアルに描き出した作品集かと思われそうだが、決してそうではない。というか、人生の感慨や思いは大いに盛り込まれているのだが、それだけではない。

まず、プロットはないに等しい。物事の理路整然とした説明もない。短篇を形作るのはバラバラの断片的なスケッチであり、気まぐれな回想に似た人生の俯瞰であり、唐突な感情の揺らぎである。それらがシャッフルされ、次々と入れ替わり、話はあっちこっちに飛ぶ。

確かに題材は痛々しいものが多く、崖っぷちの人々、アル中患者やガン患者、家庭内の愛憎などがヒリヒリする皮膚感覚で描かれるが、それらはリアリズムではなく虹のようなイマジネーションと混じり合って呈示される。時にはちょっとグロテスクなイメージの場合もある。

題材やスタイルからレイモンド・カーヴァーを連想する人もいるんじゃないかと思うが、ルシア・ベルリンの文体はカーヴァーよりはるかに自由奔放だ。簡潔で的確でありながら、その中に奔放なメタファーがはじけ、火花を散らす。まるで散文詩のように突拍子もないイメージや茶目っ気が顔を出す。あることを回想しながら脳内に溢れ出す呟きと連想を、そのまま紙面に再現しているようだ。

例をあげてみよう。訳者があとがきで、こんな文章は他の誰にも書けないと言っているのはこれ。「ターはバークレーのゴミ捨て場に似ていた」
ちなみにターとは登場人物の一人である。

こんなのもある。「月明りの下でスカンクが番っているのも見た。きれぎれの尖った鳴き声が東洋の楽器のようだった」

さて、個々の収録作について少し触れたい。表題作の「掃除婦のための手引き書」は、タイトル通り他人の家庭に出入りする掃除婦の途切れない詩的独白とでもいうべき短篇で、ルシア・ベルリンの小説作法の分かりやすいサンプルになっている。

ちなみにアマゾンの作品紹介には「毎日バスに揺られて他人の家に通いながら、ひたすら死ぬことを思う掃除婦」とあるが、「死ぬことを思う」は彼女の日常の中に溶け込んでいて、ストーリーの大部分は顧客のことや仕事のことや掃除婦仲間との会話や死んだ恋人の記憶などが、フラッシュバックを思わせるスピード感とキレの良さで次々と現れては消えていく。それらが渾然一体となって、絶対にあらすじやテーマに還元できないルシア・ベルリンの小説となる。

痛々しい人々や状況を題材にしたトラジコメディも彼女の十八番で、「最初のデトックス」は郡立病院のデトックス棟に入った女の話(体験談なのだろうか?)。メインはそこに入っている連中のスケッチで、コミカルだけれどもやっぱり痛ましい。この悲喜劇性はカーヴァーによく似ている。

「喪の仕事」もシャープにまとまったとても彼女らしい短篇で、死んだ人の家の片づけをする掃除婦の話だ。遺族である若いカップルと一緒に色んなものを見て回るのだが、ここでもコメディと哀しみが一緒くたに凝縮されている。

ちょっと毛色が違うのは「ドクターH.A.モイニハン」。歯科医だった著者の祖父が題材らしいが、内容はというと、その祖父が自分の歯を全部抜いて入れ歯にするというすさまじい話だ。孫娘である作者にそれを手伝わせる。ルシア・ベルリンのグロテスクで血なまぐさい想像力がほとばしる短篇である。

超短編もあります。「わたしの騎手」は緊急救命室に騎手が来る、というだけのイメージの遊びで、きらめくようなフレーズと茶目っ気が印象的。しかし、その中にも悲劇性と、剣呑さと、少しばかり血なまぐさい戦慄が見え隠れする。まるで万華鏡のようだ。「マカダム」も同じ系統の超短編。

そしてルシア・ベルリンの王道というべき家族を描いた作品は、「苦しみの殿堂」や「ママ」など。「苦しみの殿堂」は自分の母親や家族についてのめくるめく回想。「ママ」も同じく母親が題材だが、こちらは妹サリーとの会話形式で書かれている。作者の母親はとても苛烈な女性だったらしく、娘ルシアの母親に対する感情は決して微笑ましいものではない。

「セックス・アピール」は姉が妹に男相手の駆け引きを教える短篇だが、ルシア・ベルリンらしい万華鏡的イマジネーションは控え目。一幕ものの芝居のように出来事の流れを追っていくスタイルで、比較的トラディショナルな作りだ。しかし辛辣なアイロニーが基調となっているところは変わらない。

「さあ土曜日だ」はムショの中で文集を作る囚人たちの話で、珍しく男性一人称で書かれている。フィクション色が強いが、やっぱり実経験がもとになっているようだ。

そして、私見では彼女の作品の中でとりわけ優れている妹サリーを扱った作品がいくつか。その一つ「ソー・ロング」は、かつて著者がつきあっていたサックス奏者のマックスとのあれこれ、並行してガンで死につつある妹サリーを描く短篇。ほぼ実際にあったことを書いているらしいが、ある程度の期間にわたるエピソードやそれにまつわる感情を、彼女のアクロバティックな文体がシャッフルし、対比し、きらめかせる。ルシア・ベルリンのマジックを堪能できる傑作だ。

「あとちょっとだけ」も病気で死んだサリーを中心に据えた作品。痛々しく美しい、結晶体のような短篇である。最初から最後まで絶品だ。書き出しの文章を引用してみよう。「ため息も、心臓の鼓動も、陣痛も、オーガズムも、隣り合わせた時計の振り子がじきに同調するように、同じ長さに収斂する」

こんな文章で始まる小説が傑作ではないわけがない。

ルシア・ベルリンの小説を一言で言い表すならば、万華鏡のようなという形容がふさわしい。小さなきらめく断片が思いもよらぬやり方で隣り合ったり並んだりして、ぐるっと回すとたちまち新しい光景が現れて読者を翻弄する。ひとつひとつのエピソードの選択も不思議で、必ずしも劇的なものとは限らない。煎じ詰めるとちょっとした人間のおかしさや、矛盾や、アイロニーが芯になっている。そこに連想や感情や記憶など色んなものが付着して、ひとつの短篇になる。

まるで貝殻や石や陶器の破片を組み合わせてモザイクを作っていくように、言葉とイメージと記憶を拾い上げて短篇小説を作り上げていく。もちろんこれは私の想像に過ぎないが、ルシア・ベルリンはもしかしたら、そんな風に小説を書いていたのかも知れない。

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