『許されざる者』 クリント・イーストウッド監督   ☆☆☆☆☆

『ミスティック・リバー』に続き、イーストウッド監督の『許されざる者』をiTunesレンタルで鑑賞。これは初見ではないが、大昔にレンタルビデオで見て「なんだか主人公がカッコ悪い西部劇だな」ぐらいで、大して印象に残らなかった映画だった。

もともと西部劇には興味がなく、だからイーストウッド出演西部劇も全然見たことがないし、『グラン・トリノ』『チェンジリング』『ミリオンダラー・ベイビー』でイーストウッド監督作品の素晴らしさを知る前だったので、話題の映画だからと軽い気持ちで観た映画だった。最近『ミスティック・リバー』であらためてイーストウッド監督作品の良さを堪能したので、思い立ってこれも再見してみたわけだ。

公開は1992年。西部劇でスターになったイーストウッド監督が撮った「最後の西部劇」として話題になった。

イーストウッドが演じるのは、アメリカ開拓史上名高い泥棒にして人殺し、ウィリアム・マニー。彼は妻を亡くした後、堅気になって、子供二人を育てながら困窮した生活を送っている。その頃、ビッグ・ウィスキーという町の酒場で酔っ払ったカウボーイが娼婦の顔を切る事件が起き、娼婦たちは復讐のために金を出し合って、カウボーイ二人の命に賞金をかける。

これを狙った賞金稼ぎの若者スコウフィールド・キッドは、「有名な人殺し」であるマニーを訪ねてきて声をかける。いったんは断ったマニーだが、子供たちのために金が必要なため、昔の仲間ネッド(モーガン・フリーマン)を誘ってキッドに合流する。三人は仕事をするために町へ向かう。

一方、町には酷薄で容赦のない保安官リトル・ビル(ジーン・ハックマン)がいた。彼は、やはり賞金目当てにやってきた有名な賞金稼ぎイングリッシュ・ボブを半殺しの目に遭わせて追放する。その直後マニー達三人は町に到着するが、酒場にいたマニーがやはりリトル・ビルと手下に暴行を受け、大けがをする。マニーは数日動けなくなるが、娼婦たちに介抱されて回復した後、三人でカウボーイ殺しの仕事を実行する。

なんとかカウボーイ二人は仕留めたものの、人殺しに嫌気がさしたネッドとキッドは脱落。ネッドは帰路の途中でカウボーイ達に捕まり、リトル・ビルに拷問されて死ぬ。それを知ったマニーは、一人で町に戻っていく。リトル・ビルとその一味を皆殺しにするために。

あらすじだけ見ると普通の西部劇のようだが、実はかなり違う。美女もロマンスも出てこない、保安官が悪者でアウトローが主人公、など従来の西部劇との違いは色々あるが、最大の違いは、人を殺すことの罪深さを正面から見据えている点だろう。悪人だろうが何だろうが人殺しは忌まわしいもので、かっこいいものでもスカッとするものでもない、という認識が全篇を貫いている。

そもそも、世の中に絵に描いたような「悪人」なんていない。みんな、それぞれの事情を持った男たちだ。殺されるカウボーイの一人はただ乱暴者と一緒にいただけで、事件後に謝罪のため娼婦に仔馬を贈ろうとした青年だった。彼はマニーに腹を撃たれ、泣きながら死んでいく。本作のヒールであるリトル・ビルも賞金稼ぎに対しては冷酷だが、彼なりに保安官として町の治安を守っている。

つまり、この映画には他の西部劇のように絵に描いたような悪人は登場しない。だから、みんな人を殺すことに耐えられない。ネッドはカウボーイを撃てず、嫌気がさして脱落する。血気にはやりガンファイトを礼賛していたキッドも、初めて人を殺した後には辛さですすり泣く。人ひとりの人生と将来のすべてを奪い去ったのだ、という罪悪感は耐え難い。

当然ながら、カッコいいガンファイトの否定もこの映画のテーマのひとつだ。リトル・ビルはイングリッシュ・ボブの武勇伝を書いていた伝記作家に、実際のガンファイトがいかにブザマで、アンフェアなものだったかを教える。慌てて撃とうとした相手が自分の足を撃ってしまったこと。銃が暴発して片手が吹き飛んだこと。イングリッシュ・ボブは、丸腰の相手によろよろ近づいていって至近距離から撃ち殺したこと。

リトル・ビルは伝記作家に言う。ガンファイトなんてかっこいいもんじゃないし、早撃ちなんて重要なことじゃない。勝つのはいつも、一番クールな奴だ。それに、人を殺すのは思うほど簡単なことじゃない。人に銃口を向けて引き金を引くのは、とても難しいことなのだ、と。

結局この映画で最後まで淡々と人を殺し続けるのは、主人公のマニーだけである。マニーはリトル・ビルの一味を皆殺しにした後、町の人々に向かって叫ぶ。ネッドの葬儀をしてやれ、娼婦を人間扱いしろ、でなければ戻ってきて皆殺しにするぞ。

つまり、マニーは英雄でも正義の味方でもない。女子供も見境なく殺す忌まわしい「人殺し」なのだ。人殺しを平然と続けられるなんて、到底まともな人間ではないのだ。この映画では何より、そのことが強調される。

それからもう一つ、映画の中盤までマニーはひたすらカッコ悪い。豚の群れに交じってブザマに転倒する。銃の練習をしても的に全然当たらない。馬に乗ろうとしてブザマに落馬する。雨に打たれて病気になってゴホゴホ咳ばかりする。酒場ではリトル・ビルにタコ殴りにされ、ずるずる床を這って逃げ出す。いやもう、ハンパないカッコ悪さだ。これじゃ、ただのもうろく爺さんである。普通、西部劇の主人公はこうじゃないだろう。

だから最初「伝説的人殺し」だと一目置いてマニーに声をかけたキッドも、「ありゃダメだ」とあきれ、ネッドと二人で仕事をしようと言い出す。その状況が変わるのは、マニーがまた人を殺し始めてからだ。カウボーイを殺す時、青ざめて撃てないネッドからライフルを受け取ったマニーは、平然と引き金を引く。彼は老いぼれて体も弱いが、人を殺すのが平気なのだ。

そしてネッドが殺されたことを聞いたマニーは、それまでどれほど勧められても「禁酒したから」と言って飲もうとしなかった酒を、またぐいぐい飲み始める。クライマックスの殺戮に赴く直前、マニーは空になった酒瓶を地面に投げ捨てる。

マニーはかつて、人を殺す時はいつも酔っていたという。

この時点のマニーは、もはやブザマだった堅気のマニー、しらふのマニーとは別人である。伝説の人殺しが戻ってきたのだ。体力や銃のテクニックなどではなく、ただ平気で人に向けた銃の引き金が引けるというその一点において。

ここからラストにかけてのガンファイトは壮絶という他はない。リトル・ビルと手下たちが集まっている酒場に音もなく入っていき、ライフルの撃鉄を起こす。その場が凍りつき、静寂が広がる。マニーが言う。「ここの主人は誰だ」

「俺だ」と答えた男の腹に、無言で鉛玉をぶち込む。「丸腰の男を撃つなんて卑怯だぞ」とリトル・ビルが叫ぶ。マニーは冷たく言い放つ。「おれの友達の死体を店の飾りにするなら、武装しておくべきだったな」

そして銃撃戦になる。一対多数だが、マニーはあわてずに一人ひとり射殺していく。これは決して早撃ち合戦ではないし、マニーはそれほど鮮やかな銃さばきを見せるわけではない。まさに、リトル・ビルが話していた通りだ。早さじゃなく、一番クールな奴が勝つ。結局、マニーは一人で五人を撃ち殺した後、町の人々に呪詛の言葉を残して去っていく。

ブザマで弱々しい「堅気のマニー」と、最後に出現する「冷血な人殺しマニー」の落差は物凄い。それによって最後のガンファイトが引き立ち、観客の溜飲が下がるというエンタメ効果とともに、一人の男の中に存在する二面性があぶり出される。「人殺し」の業というべきものの不可解性が立ち上がってくる。こんなことをやった西部劇はこれだけだろう。

冒頭とラストに画面に表示されるウィリアム・マニーという残虐な「泥棒にして人殺し」に関するテロップも、一人の人間がはらむ矛盾と謎をあぶりだし、映画に複雑なポエジーをもたらしている。私たちはこの物語の後、彼が子供二人を連れてその地を去っていったことを知る。おそらく、彼はまたあのブザマな堅気の男に戻ったのだ。美しい夕焼けの映像とともに、この冒頭シーンとラストシーンは物語を大きく膨らませ、観客を深い余韻で包み込む。

勧善懲悪ではなく、人間性がはらむ曖昧性と矛盾。正義などどこにもないというグレーな現実と、暴力の醜さ。この映画が狙ったものはいわば西部劇の否定であり、だから本作は「最後の西部劇」と呼ばれたのである。

クリント・イーストウッド監督のゆったりした間と丁寧な描写は、映画全篇を通して驚くべき緊張感を維持している。特にリトル・ビルの登場シーンにそれが顕著で、ほとんどが静かな場面なのに、どの瞬間も息詰まる戦慄に満ち満ちている。一つ一つの場面がずっしりと重たい。この映画において、ジーン・ハックマンの存在感はあまりにも大きい。

そしてもちろん、滋味豊かなスープのような、古き良き時代の映像美。夕焼け、雨、太陽の光を浴びる木々、宵闇の深さ。『許されざる者』は、やはり珠玉の名作だった。昔観た時に真価が分からなかった自分の不見識には、恥じ入るより他はない。

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