『ミスティック・リバー』 クリント・イーストウッド監督   ☆☆☆☆

iTunesのレンタルで鑑賞。大好きなクリント・イーストウッド監督の作品にもかかわらず今まで観ていなかったのは、「後味が悪い映画」「鬱になる映画」みたいなランキングで常に上位に入っている映画だからだった。ある私の知人はこの映画のことを「観た後あれほど気分が悪くなったのは初めてだ」とまで言っていた。そこまで言われると、やっぱり敬遠したくなる。

ネットで評判を検索してみると、まさしく毀誉褒貶が渦巻いている。大体褒める人は役者の演技や重厚さを褒め、けなす人はやっぱり後味の悪さをけなしている。あまりにかわいそう、みたいなことを言ってる人もいる。

私は今回やっと鑑賞してみたわけだが、蓋をあけてみると恐れていたほど鬱映画ではなかった。これぐらいならまあ、オーケーである。同じイーストウッド監督の映画なら『ミリオンダラー・ベイビー』の方がきつい。

が、確かに雰囲気は重いし、暗い。じわじわ来る感じだ。それにストーリーのひねくれ具合がすごい。要するに意地が悪い。殺人事件を扱ったミステリなのだけれども、その結着がきわめて理不尽なのだ。勧善懲悪の真逆だと言っていい。ほとんど作者の悪意を感じるほどだ。「世の中ってこんなもんだよ」という身も蓋もないアイロニーがあまりに痛烈で、映画を観終わった後も後をひく。それがこの映画の「後味の悪さ」の正体だ。

とはいうものの、実は名作と言われる映画にはこういうアイロニーは多かれ少なかれあるもので、そうでなければ名作といわれるクオリティは獲得できないだろう。『七人の侍』しかり、『赤線地帯』しかり、『小間使の日記』しかり、『夏の嵐』しかり。アイロニーとはすなわち多義性であって、多義性こそがポエジーを生み出す源泉なのだ。アイロニーがない、ストレートなメッセージ性だけの映画なんて、結局子供だましのエセ芸術に過ぎない。

さて、ストーリーを簡潔に紹介すると、舞台はアメリカの田舎町、主人公は幼馴染三人組ジミー(ショーン・ペン)、ショーン(ケヴィン・ベーコン)、デイブ(ティム・ロビンス)。

まだ幼い頃、通りで遊んでいた三人のうちデイブだけが中年男に車でさらわれ、数日間監禁されて性的ないたずらの対象となる。彼はそれがトラウマとなり、三人はいつしかバラバラになって成長する。デイブは低賃金で働きながらささやかに妻子を持ち、ジミーは前科者ながらそれなりに顔がきく経営者になり、ショーンは刑事になる。

そして、あの幼い日の事件から25年後、ジミーの娘が行方不明になる。ジミーの祈り空しく、暴行された死体が発見される。ショーンはパートナー(ローレンス・フィッシュバーン)と一緒に事件を捜査し、ジミーはショーンの制止もきかずに仲間を使って、復讐のため犯人探しを始める。

一方、デイブは事件の前夜、深夜血まみれになって帰宅したところを妻に見られていた。彼は幼少時のトラウマのせいか、最近とみにおかしな言動が目立つようになっている。刑事たちもそれを怪しみ、彼のまわりを捜査する。一方で、ある恐ろしい疑念に苛まれた妻は、それをジミーに打ち明けてしまう…。

というわけで、果たしてデイブは幼馴染であるジミーの娘を暴行殺害してしまったのか、どうなのか、というのがミステリーの核心である。

彼の行動は、誰がどう考えても怪しい。異常なことだらけだ。ショーンたち刑事もそれに気づき、相棒のローレンス・フィッシュバーンはあからさまにデイブを容疑者扱いする。ショーンはそんなはずはないと揺れながらも、デイブに事情聴取し、刑事として自分の職務に忠実であろうとする。この映画の中では、ショーンがもっとも公平かつ理性的な人物に思える。

そして、この事実を復讐心でいっぱいのジミーが知った時、恐ろしい悲劇が起きる。

結末には触れないが、まあ大体想像はつくだろう。この映画のラストシーンにショーンとジミーとそれぞれの家族は映っている。が、デイブはいない。デイブの妻と子供がいるだけだ。

この映画は幼少期のトラウマが引き起こした悲劇、そしてそれが歪めてしまった人生を描くものだが、映画の中で何度か言葉にされるように、トラウマを抱えているのはデイブだけではない。少年時代に車で連れ去られるデイブをただ見ていたショーンとジミーも、それがトラウマになっている。「もし、あの時連れ去られたのがデイブでなく自分だったら」。この疑問は二人のオブセッションになっている。

そして三人の人生がすれ違い、25年後に再び交錯した時、新たな悲劇が起きる。あたかも、25年前の事件はこの悲劇のはるか遠いプロローグだったかのように。

この映画において、デイブは徹底して弱者である。最初から最後までそうだ。そして、普通の映画だったらどこかに弱者への救いを用意するものだが、この映画にはそれがない。弱者は最初からいなかったものの如く、跡形もなく消え去るのみだ。

そしてもっとも観客に衝撃を与えるのは、間違いを犯した者(ジミー)とそれを知る者(ショーン)のいずれも、ただなんとなく弱者を忘れさってしまうことである。冷淡に、何もなかったかのように。あの理性的で誠実だったショーンでさえ、そうなのだ。

弱者への救いや希望がまったくない結末。これが、本作が「後味が悪い鬱映画」ランキングの常連となっているゆえんだ。

ひねくれ具合が強烈であるがゆえにストーリー展開はいささか人工的で、作為が目立つが、デイブ拉致と犯人逮捕が交錯する終盤の山場は非常にスリリングだ。観客も(登場人物と同じく)真相が分からない状態でどんどん事態が進んでいくので、画面に目が釘付けになってしまう。

真相解明の決め手となる拳銃の使い方もうまい。伏線がきちんと機能して、意外ながらも説得力のある謎解きへとつながる。

しかしそういう仕掛けやプロットの組み方もさることながら、やはりこの映画の最大の魅力は、クリント・イーストウッド監督独特のじっとりと湿り気を含んだ、重厚かつミステリアスな雰囲気だと思う。人間の心の深淵をのぞき込むような戦慄と、なつかしさ。それにどっぷり浸れることが快感だ。

常に薄曇りで、曖昧性と不確かさに満ち満ちた世界。アメリカの田舎町の、親密さと猜疑心が入り混じった空気感。濃厚なやりきれなさ。それがイーストウッド監督の、悠揚迫らぬタッチで丁寧に描かれていく。

無論、ティム・ロビンス、ショーン・ペン、ケヴィン・ベーコンの三人の芝居はどっしりと巌の如くだ。彼らのキャリアの中でもベスト級の演技であることは間違いない。

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