『アインシュタインの夢』 アラン・ライトマン   ☆☆☆☆☆

ハヤカワepi文庫の『アインシュタインの夢』を久しぶりに再読。私はこの独特の美しさを持った小説が大好きなのだが、もはや絶版のようだ。今アマゾンで見ると、中古本がたった27円で出品されている。本よりも送料275円の方が高い。もっとつまらない小説がベストセラーになっているというのに、この見事な小説がこの扱い。まったくわけが分からない。

本書のストラクチャはイタロ・カルヴィーノ『見えない都市』によく似ている。ベルンの特許局で働く若き日のアインシュタインが、画期的な時間理論を発表する直前の数カ月に見た「かも知れない」夢。という体裁で、時間の性質が異なる色んな世界を、並列して描いていく。一つ一つの世界の描写は短く、3ページから5ページぐらい。その「夢」が30篇収録され、アインシュタインが登場する短いプロローグとエピローグ、そしてインターミッションが入る。

要するに、奇想陳列型の小説である。一つ一つの「夢」では摩訶不思議な町の情景、あるいはそこで生きる人々の暮らしぶり、世界観、コミュニティなどが俯瞰的に描写される。最初から最後まで通して出て来る登場人物を設定し、ストーリーを進めていくという普通の小説ではない。「夢」は一つ一つがシュールレアリスティックなので、たとえばルネ・マグリッドの絵画展示会のようなものをイメージしてもらえばいい。私たち読者は一つの一つの絵の前で立ち止まって、そこに描かれている摩訶不思議な世界をじっくり鑑賞し、驚異や美しさを賞味し、また次の絵画へと歩を進める。

異なる時間の性質を持つ世界とは、一体どういうものか。たとえば時間が逆行する世界、時間がない世界、未来があらかじめ確定している世界、時間が枝分かれしている世界、土地土地で時間の長さが異なる世界、記憶がない世界、人々の人生がたった一日しかない世界、時間がバラバラに分断された世界、高いところでは時間の流れが遅くなる世界、動いていると時間の流れが遅くなる世界、などである。これが三十ある。

まったく途方もない想像力という他ないが、単に素人が空想だけでこれを生み出すことは不可能だ。作者のアラン・ライトマンは天文物理学者で、だからこそこういう芸当が可能になる。きちんと理論の裏付けがあるのだ。

更にすごいのは、ただSF的な奇怪な時間理論を見せるだけじゃなく、その結果、そこで生きる人々はどんな生き方をするか、どんな愛し方をするか、そしてどんな世界観を持つに至るか、というところまで描いていることである。これは物理学ではなく、形而上学的、哲学的知性が必要になる。それぞれの世界の美しさや、哀しさや、空虚さ。あるいは幸福、あるいは絶望。一つ一つの奇想が、ポエジーになる。

読み進める私たちにとってはどれもこれも奇怪な世界に思えるが、面白いのはこの中に一つだけ、私たちが生きているこの世界がまぎれこませてあることだ。しかし、どれがそうかは一度読んでも分からないだろう。少なくとも私は分からなかった。奇想の中にまぎれ込ませることで、私たちの見慣れた世界が異化され、シュールレアリスティックに謎めいて見える。

本書はきわめて優れた幻想小説だと、私は思う。といってももちろんファンタジーや耽美小説の類ではなく、ボルヘスやカルヴィーノ系統の、形而上学的幻想小説だ。それに『見えない都市』に似ているといっても、決してカルヴィーノの物真似にはなっていない。独自の幾何学性と、硬質な美しさを備えた小説である。

形而上学的といっても、決して頭でっかちな小説ではないことも明記しておきたい。典雅な文体ももちろん十分に魅力的だが、描かれるヨーロッパの街並みがまたなんとも情緒豊かで、ノスタルジックな古都の息吹きを感じることができる。澄み切った観念の美しさと古雅で奥ゆかしい情緒が一体となった、エレガントな幻想小説。

古本屋で見かけたら、多分100円玉でご購入可能です。

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