『慈雨』 柚月裕子   ☆☆☆☆★

映画『孤狼の血』の原作者、柚月裕子氏の小説を読んでみたいと思ってセレクトした本。結果的に大変満足したが、同じ警察小説でありながら、映画『孤狼の血』とはまったく違うタイプの小説だった。派手で、えげつなく、昭和色濃厚で、起伏が激しく、ごった煮スープのような猥雑なエネルギーが特徴だった映画版『孤狼の血』と比べると、本書はシンプルな筋立て、内省性、秘められた思い、過去の悔恨、淡々と抑制された描写、などがキーワードとして思い浮かぶ。

とはいえ、その静けさの中に熱い思いがこもっているところは共通だ。軽さより重さが印象的な作風だけれども、その重さは決して陰鬱もしくは閉塞したものではなく、人生の葛藤を丁寧に見つめたような、そしてその中にどこか希望の種を秘めているような、そんな重厚さである。

主人公は定年退職したばかりの元刑事、神場。定年退職後ということは60代だ。神場は長年連れ添った妻とともにお遍路の旅に出る。最初から詳しくは説明されないが、心に重たい鬱屈を抱えていて、それは過去の未解決事件に関係があるらしい。

主人公が60代、お遍路の旅、過去の辛い記憶。なかなか地味な始まり方だ。高級ホテルでイケメン刑事とクールなホテルウーマンが出会う、なんて華やかさは微塵もない。TVドラマ化されてもジャニーズは出ないだろう。そもそも、定年後に夫婦でお遍路の旅をする人がいる、なんてことが初耳だった。こういう古い風習は今の日本ではすっかり失われたような気になっているが、実は知らないところで根強く生き残っているのかも知れない。そう思わされるのは、主人公である神場の苦悩にそれだけリアリティがあるからだ。

神場夫婦がお遍路の旅を辿り、平行して今現在起きた幼女の行方不明事件の経緯が語られる。捜査陣に加わっている若い緒方刑事はかつての神場の部下であり、神場の娘と親密な仲でもある。この事件は今も神場を苦しめる過去の事件と酷似しており、そのため神場は緒方刑事と連絡を取って捜査状況を聞き、時にはアドバイスを与える。このように、神場のお遍路の旅、幼女行方不明事件、の二つがストーリーの軸となる。

お遍路の旅の描写はなかなか細かくて、その中で神場夫婦の距離感や、長年培われた信頼感、落ち着いた愛情などが丁寧に描かれていく。この部分は事件とは関係ないため、先が気になる読者にしてみればスロースターターの印象を与えるかも知れないが、これが後でじわじわ効いてくるのは言うまでもない。

特に、神場刑事の過去の悔恨が少しずつ明かされていく、その「タメ」の匙加減は見事であり、またその秘密が読者の関心をとらえて離さない。現場の刑事一筋に生きてきた男の人生に、楔のように撃ち込まれた消せない悔恨とは何か。その重みが、物語が進むとともに切実さを増していく。

もう一方の事件の捜査状況はもちろん警察ミステリとして肝の部分だが、こちらもことさらに派手な仕掛けはなく、きわめて抑制されている。リアリティ重視だ。捜査は膠着状態を続け、その点でもスロースターターだが、終盤ぐっと盛り上がってからもあんまり派手に盛り上げることはしない、むしろ控え目だ。が、だからこそ説得力が出ている。

現在の事件の進捗と、神場の過去の後悔。この二つが強くリンクするのはもちろんだが、それ以外にも、神場が緒方刑事と娘の結婚に反対する理由や、娘の出自、そういった事件とは関係ない要素がミステリアスに物語を膨らませ、そしてすべてが混然一体となってクライマックスになだれ込む。

つまり、事件の捜査や犯人逮捕などのアクションによって物語を盛り上げるのではなく、登場人物たちの思いが動くことで物語が盛り上がる。これが素晴らしい。夫婦愛もちゃんと本書のテーマに溶け込んでいる。だからこそ、前半時間をかけて醸成された神場刑事の人生の重みが生きてくる。そして、事件にかかわって登場する数人の刑事たちそれぞれの思いも、バランスよく書き込まれている。辞めた刑事、これから辞める刑事、そしてこれから育っていく刑事。それぞれきっちり描かれ、決しておざなりにはならない。

これは見事なミステリ小説だと思うが、事件の謎やトリックという意味では最小限だし、控え目だ。本書が本当に扱っているのは、人それぞれの人生におけるミステリなのである。練りに練られた、いぶし銀の警察小説というにふさわしい。

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