『砂の女』 勅使河原宏監督   ☆☆☆☆★

所有するDVDで再見。1964年のモノクロ映画。陰気な映画なのでしょっちゅう観る気はしないが、たまに観るとやっぱり面白い。

ご存知、安部公房の不条理小説の映画化である。昆虫採集のため休暇を取って砂丘に行った教師が、砂の中にある家に一夜の宿を求める。そこでは女が一人で暮らしているが、天井からは砂が降り、夜通し砂かきをしないと砂に埋もれてしまうひどい環境。

翌朝旅立とうとすると、縄梯子がない。男は自分が監禁されたことを知る。女手ひとつじゃ無理だから、一緒に住んで砂かきしろというのだ。冗談じゃない、と男は憤るがどうしようもない。村全体が協力しているため、何度脱走を企てても成功しない。男は女と一緒に、その砂に埋もれた家で暮らすことになる…

もろにカフカ的な不条理小説で、この映画も原作の不安な、灰色の、気が滅入るようなトーンを忠実に受け継いでいる。不安をあおる武満徹の音楽、岡田英次のぼぞぼそ呟く陰気なナレーション。いかにも昔の前衛映画の雰囲気だ。ハンコをあしらったタイトルバックからして異様だし、岡田英次のナレーションが証明書について語るのも、人間のアイデンティティや実存がテーマという芸術映画的な主張を感じさせる。またそういうところがナマで出ているのも、昔の前衛映画らしい。

だから最初は頭でっかちなアングラ映画かと思うが、砂に埋もれた家に監禁されてなんとか逃げ出そうとする、というプロットはスリラー映画的でもあり、割と面白く観ることができる。監禁手段は縄梯子を隠すだけというシンプルなもので、だから物語は監禁や逃亡の技術論に時間をかける必要がなく、男と女、そして砂に埋もれた家、というシンプルな構図に集中することができる。実はこれが効いている。

要するに、この砂の家はアリジゴクなのだ。アリジゴクの映像も実際に出てくるし、男が崖を這い上ろうとして砂がボロボロ崩れてくるシーンもある。また、風に吹かれて生き物のように動く砂の映像はよく出来ていて、迫力がある。シュールレアリスティックな美しさも感じさせる。定期的に挿入される砂の映像は、アリジゴクに捕まった人間の不安感をあますところなく表現して、不気味である。

が、なんといっても本作の目玉は砂の女こと岸田今日子、彼女に尽きます。最初、村人が「ばあさん」なんて呼んでるから年寄りかと思うと、まだうら若い娘だ。こんな村では若い娘も「ばあさん」なんだろうか? まあそれはいいとして、この映画の中の岸田今日子は厳しい環境で孤独に暮らす女の生活感をベースに、おぼこっぽさとかわいらしさと色っぽさを微妙に滲ませ、なんとも形容しがたい不思議な魅力がある。

おとなしく礼儀正しいと思ったら、急に親しげに「だめ」と媚びを見せたりする。そして朝になって目覚めた岡田英次がふと見ると、顔に手ぬぐいだけかけて、全裸で寝ている。その体の上には、薄く砂がつもっている。男は茫然と女体を眺める。いや、すごいシーンだこれは。そしてこのシーン、岸田今日子だからこその凄みがあるのだ。

もちろん、男はやがて女と体の関係を持つ。昔の映画なので露骨なラブシーンはないが、エロティシズムは満載だ。男が女の着物を緩めたりまくったりしながら、体の砂を拭いてやるシーン。女が男の体を石鹸で洗いながら、興奮したように吐息をつくシーン。砂の恐怖から逃れられない不安な雰囲気の中なので、官能性が際立って感じられる。芸術的エロティシズムとはこれだ。

それに、あの天井からサラサラと砂が降ってくる、畳がふやけた、電気もない、甕の水は汚れている信じられないボロ屋も、そこにかすかな笑みをたたえた岸田今日子がいると、なんだか充足した小宇宙のような奇妙な安らぎを醸し出すのが不思議だ。一種の胎内回帰願望かも知れない。

この映画を観て、この男の立場になったら、この家でこの女とそれなりに幸せに暮らしていけるんじゃないか、とふと思う男は多いんじゃないだろうか。

そんなこんなで、私は人間のアイデンティティや実存的問いみたいなものはあまり気にせず、この砂の女が中心にいる貧しい家の、奇妙にヌクヌクした官能的な世界に浸っていればいいし、またそれこそがこの映画を観る愉悦だと思う。それにしても、あの後岸田今日子はどうなったのだろうか。それが気になるなあ。

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