『冬物語』 エリック・ロメール   ☆☆☆☆

ロメールの四季四部作中の『冬物語』を、所有している日本版ブルーレイで再見。『恋の秋』『春のソナタ』については前のブログに書いているので、ご興味がある方はそちらもどうぞ。

さて、本作は四部作の中でもっともありそうにない、つまり不自然な偶然を描いた作品である。といっても世間一般の映画やTVドラマだったらこれぐらいごく普通だと思うが、ミニマリストにしてリアリストのロメールにしては珍しい。ブルーレイの解説にもあるが、言ってみればロメールらしくない「ご都合主義」的プロットである。

が、もちろん監督は自覚的にやっているのだ。その「ご都合主義」は、よくある恋愛ドラマみたいに安直に話を転がすための手段ではなく、ちゃんと意味を持っていて、かつ本作の主題と密接な関係がある。なぜならば、本作の主題は「奇跡」なのだから。

あらすじを簡単に紹介すると、ある夏海辺でコックのシャルルと恋に落ちたフェリシーは、間違った住所を渡してしまったためにもう二度と彼に会うことができなくなってしまう。五年後、彼女はシングルマザーとしてシャルルの娘を育てながら、ロイックという知的な青年や既婚者の美容師マクサンスとつきあっていた。母親はロイック推しだが、フェリシーはワイルドなマクサンスに惹かれている。マクサンスが妻と別居するのを機に、フェリシーはロイックと別れてマクサンスと同棲するが、やはりシャルルのことが忘れられず母親の家に戻ってくる。こうして一人になったフェリシーはその年末、パリの街中で、偶然シャルルと再会するのだった…。

ストーリーの構造は単純で、フェリシーはまるで奇跡を信じるキリスト教徒のように、シャルルと再会できることを信じている。その奇跡は最後に実現するのだが、シャルルは最初のプロローグ部分と最後にしか登場せず、その間彼女を取り巻く男性二人とフェリシーとの、あっちへ行ってはまたこっちへ戻るという恋のロンドが、この映画のメインパートとなる。従って、奇跡が主題といっても映画の雰囲気はいつもと変わらない。フェリシーがマクサンスとデートしたり、いつ離婚するのといってもめたり、ロイックと哲学について議論したり、というようなシーンが淡々と続く。

フェリシーはシャルルと再会できる可能性はほぼゼロだと分かっているので、マクサンスとロイックの間で揺れる。知的でおとなしいタイプと、たくましい情熱家タイプ。ロイックは「頭でっかち」で、自分にはマクサンスの方が合うと思った彼女はいったんマクサンスのもとへ走るが、マクサンスが自分を「ぼくの妻だ」と美容室の客に紹介したことが受け入れられず、マクサンスのもとを去る。そうすると今度は、おとなしく知的なロイックが、恋人ではなくても信頼できる友人として身近な存在となる。

こんな風に、いつものロメール映画のヒロインと同じく気まぐれに彷徨するフェリシーだが、心の奥には常にシャルルが存在し、可能性はゼロだと頭では分かっていても、やはりいつかめぐり合えることを信じている。この映画の中でフェリシーは、色々と迷い、ふらつきながらも、最後は自分の心の声に従って幸せをつかむことになる。本作はロメール映画の中でも、これ以上ないぐらいきわめつきのハッピーエンドである。

それともう一つ、本作は「奇跡」がテーマということで、映画のあちこちに関係するモチーフ、たとえば妖精の置物、大聖堂、奇跡に関する哲学的議論、シェークスピア観劇などがちりばめられている。そして当然、季節は冬であり、クリスマスの時期。年の瀬のパリの光景とともに、いつになく神秘主義的ムードが漂っているのも本作の特徴だ。

この映画はシェークスピアの「冬物語」にインスパイアされて生まれたらしいが、その「冬物語」の舞台をフェリシーとロイックが観るシーンがある。ロメール監督としても、これはやはり重要だということだろう。シェークスピア作「冬物語」のストーリーは煩雑になるので省くが、最後に死んだと思われていた王妃が復活する場面がある。フェリシーはこの場面で強く心を揺さぶられ、涙を流す。彼女もまた、奇跡を待ち望んでいるからだ。

もう一つ、「奇跡」の主題に重要な関連があるのは、ロイックの「賭け」の関する議論である。フェリシーがシャルルとの再会を諦めないことを彼は「賭け」と呼び、その賭けは「パスカルの賭け」の理論と同じだ、と説明する。パスカルの賭けとは、つまり神がいるのかいないのか分からないけれども、得られるものの大きさを考えると神がいることに賭けた方が賢い、とする理論である。

つまりここに至って、フェリシーのシャルルへの思いはほとんど「信仰」の域に近づいている。そして、これを持ち続けるべきか捨てるべきか、という選択は人生の根本問題となる。キリスト教徒にとっての、「無神論か信仰か」という選択と同じ意味を持つようになるのである。

たかが別れた恋人のことで、と思われるかも知れないが、フェリシーにとってシャルルとの再会は人生最大の重要問題であり、いわばこれは現代の「パスカルの賭け」の物語なのだ。

さて、他の四季シリーズと比べた場合、冬が舞台の本作はビジュアル的には少々劣るかも知れない。当たり前だが、少しばかり暗く、寒々としている。一方でフェリシーをめぐる三人の男性たちは、それぞれタイプが違っていて面白い。ロイックはちょっと神経質な文学青年または哲学青年で、色々議論したり、哲学論争したりする部分は彼の担当。マクサンスはワイルドな情熱家という設定で、キスしたりラブラブデートしたりとラブシーン担当。

が、あのおじさんぽい役者さんは個人的にどうかと思う。日本のトレンディ・ドラマなら、絶対ヒロインの恋人役にはキャストされないタイプだ。さすがフランスだなあ、という感じである。

そして当然ながら、シャルルが一番イケメンである。冒頭の海のシーンはなんだか筋肉男っぽいが、終盤に再登場する時はロン毛になり、いかにもイケてるパリジャンという感じだ。あれならフェリシーがずっと待ち続けるのも分かる、と思われる女性も多いのではないだろうか。

そして、このもっともドラマティックな再会シーンで、シャルルの隣にドラがいるのが作劇的にうまい。しかも、ドラを演じるのはロメール映画の常連マリー・リヴィエール。当然ながら、フェリシーも観客もいったん誤解する。そして動揺する。あれがあるから、この再会シーンがクライマックスを支えるだけの強烈なインパクトを持つことになる。

ちなみに、あまり映画そのものとは関係ないが、あっち行ったりこっち行ったりするフェリシーを見ていて思うのは、家族や友人宅を自由に泊まり歩くことができるフランス人の身軽さである。みんなが「おれにところに泊まればいい」「私のところへ来たら?」と声をかけてくれる。ロメールの他の映画を観てもいつも思うことだが、これによって、職をなくし家をなくしても別にどうにでもなる、というケ・セラ・セラなフランス人的世渡りが可能になっている。

まあ実際のところどうかは分からないが、ソーシャルライフの柔軟性がセイフティネットになっている気がする。日本社会では、なかなかこうは行かないだろう。

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