『恍惚の人』 有吉佐和子   ☆☆☆☆

すごく有名な小説だが、これまで読んだことがなかった。82年発表。ご存知の方も多いだろうが、老人性痴呆を扱った小説である。この題材は社会問題化して長く、ミステリ小説などでも頻繁に登場する題材になったが、おそらくこれが原型にして基本フォーマットだろう。物語の展開はストレートそのものだ。

主人公は一家の主婦、昭子。物語は姑の死から始まる。葬儀の直後から、舅の様子がおかしくなる。家族の顔が分からなくなる。放っておくと徘徊する。ひっきりなしに食事をねだる。

ボケてしまったのだ、と昭子と夫は会話する。途方に暮れ、どうすれば良いか分からないまま、とにかく幼児を相手にするようにして世話をする。やがて小用をするために夜叫んだり、便所に閉じこもったりするようになる。しまいには姑の骨壺を開けたりする。

空前の大ベストセラーになったそうだが、それも分かる。とにかく話の進行がストレートで、力強く、息をのむような描写が続出。当然、心地よい小説ではない。むしろ重苦しく、憂鬱で、読んでいて胸のあたりがつかえたような気持ちになる。が、あまりに切実な問題提起が次々となされるので、ハラハラして読むのを止められない。

ところどころにおぞましい描写が挿入されるが、グロテスクになる一歩手前ぐらいでセーブしてある。そのあたりの匙加減は、この手の小説の最初の原型ということもあって慎重に配慮されているようだ。もしかすると実際はもっとひどいかも知れない、と思ってしまう。が、次は一体何が起きるかとスリリングであるには違いなく、ちょっとホラーっぽい読み方もできる。

が、それ以上にこの小説において重たいのは、ヒロイン・昭子とその夫の、自分たちもやがてこうなるのだという暗い予感である。目の前にあるこの悲惨にして無残な存在は、自分たちの未来の姿なのだ。死はまだいい、と夫は鬱々と考える。それは解放でもある。が、その前にこの老醜無残があるという不条理。自分たちもやがて否応なくそうなっていき、そこから逃れるすべはない、という絶望感。それが耐え難い。

加えて、目の前にある悲惨に対してどうにも対応策がない。このまま続けば自分が死んでしまう、あるいは狂ってしまう、と昭子は考える。精神的に追い詰められ、すがるようにして施設の職員や医者と話をする。が、結局役に立たない。職員は「お宅はまだいい方ですよ。これなら、家で面倒を見てあげるのが一番です」と無責任に言い放って帰っていく。

この小説が発表されて35年以上たったが、現在では改善されているのだろうか。私は事情に明るくないが、根本的なところはあまり変わっていないんじゃないかという気がする。恐ろしいことだ。本書でも昭子が近所の主婦たちに相談し、皆で体験談を語り合う場面があるが、「こりゃたまらんな」と思う話がゾロゾロ出てくる。そして、それらは現実に起きている話ばかりなのだ。

さて、舅の状態は次第に悪化していくが、途中で小康状態になったり親戚との軋轢があったりと、有吉佐和子のストーリーテリングは冴えわたる。不愉快な話であるにも関わらず、ますます読者は本を置けなくなる。おかしくも不気味なのは、一時期舅に関心をもって世話を焼きにくる近所のお婆ちゃんである。なんだか夫婦気取りで、昭子は唖然とする。

それから実の娘のくせに何もしない京子など、身内の人間に対する描写も辛辣だ。もっとも辛辣なのは、昭子の苦労を間近に見ながら自分は何もしない夫、信利の描かれ方である。「お父さんはお前の言うことしか聞かないから」などと言って自分は逃げる。卑怯過ぎる。昭子さんはこんな夫とは別れるべきである。

そして言うまでもなく、その昭子さんの苦労は壮絶という他はない。夫の父親におしっこをさせるのだってイヤなのに、トイレに閉じこもられたり、夜中に叫ばれたりと、精神が休まる暇がない。とても持たない。こんなことやっている家庭が本当にあるんだろうか? …あるんだろうな。

あと、舅が何度も徘徊して皆で探しに行くが、家にいる時はヨボヨボしているのに外ではものすごい勢いで歩いていくという描写は、あれは本当にあることだろうか。小説としては面白いが、もちろん本当にあったらとても面白いなんて言っていられない。

ちなみに私の父親はまだ健在で、歳を考えれば十分に健康で、しっかりしてくれている。本当にありがたいことだと思う。この小説の中のような日常を送る人々は、決して珍しくないはずだ。それをせずにすんでいる自分はとても幸運だし、そんな渦中にいて苦労されている方々に対しては、何と言って励ましていいのかすら分からない。

本書には施設で碁を打ったあとぽっくり死ぬ90歳の老人が登場するが、あれは理想の姿であり、この殺伐とした小説の中に投じられた救いなのかも知れない。周囲の人々が「あれは幸せだ」と口々に言うけれども、本当にその通りだ。私もこんな死に方がいい。

まあとにかく嫌な話にもかかわらず、有吉佐和子の小説技法の確かさで一気に読まされてしまった。おススメします、とはちょっと言いたくないが、読むならまだ若いうちに読みましょう。歳とって読むとキツイです。

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