世の中にはうまい話もあるもんだなあ、としみじみ思うことなど普通あまりない。みんなそうだと思う。仮にそう思うことがあったとしても、一瞬後には悲しいどんでん返しがやってきて「ああやっぱりな、うまい話にはウラがあるんだな」と思い知らされる、とまあ、世の中は大体そういう仕組みになっている。

長く生きている人ほどこの意見に賛成いただけるはずだ。人間はそうやってだんだんと賢くなる。つまり、うまい儲け話とか、きれいなお姉さんに優しくされるとか、上司がニコニコしながら酒を進めてくるとか、そういうことに対して警戒心が働くようになるのである。

しかしそんな世知辛い世の中でも、本当にうまい話というものも稀にはあるのだ。嘘じゃない。ということを、今日はお話したい。言うまでもなく、これは私の実体験だ。

***

もう5年以上前のことになるが、私は会社の上司と同僚の二人とともに、ロサンジェルスに出張した。仕事を片付け、再びロスの空港からニューヨークへ向かう飛行機に乗り込んだ。当然、三人ともエコノミークラスである。私だけ二人の連れとちょっと離れた席で、シートベルトを締めて離陸を待っていた。機内の座席はほぼ満員で、私の隣には白人の女性が座っていた。

すると、なんだか知らないが通路から私に話しかけてくる白人男性がいる。背が高く、年は35歳から40歳ぐらい、カジュアルだが品のいい服装が旅慣れたお金持ちという感じで、インテリっぽい男性だ。

座席のことを言っているらしいがよく聞き取れず、もしかして私が座席を間違えたかな、などと思いながら「何ですか?」と聞き返した。

「いや、お邪魔して申し訳ないんだが」と、礼儀正しくその男は言った。「もしもあなたがぼくと座席を替わってくれれば、大変ありがたいのです。実は、あなたの隣に座っているのは私の妻で、私は彼女と一緒に座りたいんです」

そして彼はこう付け加えた。「決してあなたに迷惑をかける話ではありません。私の席はファーストクラスです。もちろん、お金はいりません」

私は黙って彼の話を聞いていたが、かなりうさんくさい表情になっていたはずである。いきなりこんなことを言われれば、誰だって警戒する。

最初に私が思ったのは、この男はなんらかの目的で私を騙そうとしているんじゃないか、ということだった。アメリカ、特にニューヨーク近辺に住んでいる人間は条件反射的にそう考える。タダであなたのエコノミー席と私のファーストクラス席を交換しましょうなんて言われて、はいそうですかと信じるのはバカである。

そもそも、こんなうまい話が世の中にあるわけがない。そんなことはこれまでの人生の中で、もうとっくに学習済みだ。

そうやって猜疑心でいっぱいになって隣の女性を見ると、感じのいい微笑みを浮かべながら私を見返す。ははあ、こいつも共犯か。どうしたものかな、と思いながら私はその男に聞き返した。
「ファーストクラスの席を、タダでぼくにくれるって言うんですか?」
私が怪しんでいるのは当然男も分かるので、搭乗券の半券を私に示した。「これが私の席です」

確かにそこにはファーストクラスの番号が印刷されている。それでも私がためらっていると、耳をダンボにして話を聞いていたまわりの乗客たちが騒ぎ始めた。
「オーマイガー!」
「おい、今日はあんたのラッキーデイだ!」
「なんなら私が替わってあげるわよ!」
典型的なアメリカ人的陽性反応だ。面白がってこんなことをいっせいにわめき始めるものだから、うるさいったらない。

が、とにかくその一画はこの話ですっかり盛り上がってしまった。私はまだ半信半疑ながら、こうなったらなりゆきを見届けないわけにはいかない、と思って席を立ち、男と半券を交換した。通路に立っていた男は「サンキュー!」と言って私の席、つまり奥さんの隣に座った。

ちょっと離れた席から何事かとこちらをうかがっていた連れ二人のところへ行き、事情を話してファーストクラスに行ってきます、と告げた。二人が驚きで目をまん丸にしたことは言うまでもない。

***

さて、まだ何かウラがあるんじゃないかと疑いつつ、私はファーストクラスに入っていった。すでにこの座席には他の誰かが座っている、あるいはキャビンアテンダントがやってきてキビシイ顔で元の席に戻れと言われる、などを予想しつつ席を探すと、確かにその番号の席は空いている。

それにしてもこれは一体、どういう席なのか。エコノミー席とは似ても似つかない広々とした空間に、いかにも座り心地のよさそうな、全身を委ねられるサイズの一人用ソファーがゴージャスに、福々しく横たわっている。当然、隣の席とは十分なスペースで隔てられている。なんとファーストクラスとは、これほどまでに贅沢なものなのか。

私はおっかなびっくりその席に座り、見たこともないシートの操作パネルと格闘を始めた。色々といじって、背もたれや足もたれが自由自在に倒れたり起きたりすることを驚嘆の念とともに眺め、なんとかちょうどいい位置に調整した。

ようやく腰を落ち着けて周囲を見ると、まず隣にいるのは中近東あたりの人らしきご婦人。民族衣装みたいなものを着て、飲み物を飲みながら雑誌を読んでいる。ファーストクラスなど乗り慣れている、という感じで、時々片手でさりげなく操作パネルをいじり、背もたれの位置を直したりしている。どう見ても会社勤めには見えないので、私は勝手に、石油王の奥さんででもあろうかと想像した。

次に通路を隔てた向こう側を見ると、スーツ姿にネクタイの年配の男性二人が隣同士に座って、低い声で談笑している。こちらは大企業のエクゼクティヴといった雰囲気。まるでマイレージカードかアメリカンエクスプレスのCMを見ているようである。

そんな風にもの珍しげにキョロキョロしていると、キャビンアテンダントがやってきてにっこり笑い、「何か飲み物はいかがですか?」と訊くので、私はまたまたびっくりした。まだ飛行機は離陸前だ。なんとファーストクラスでは、離陸前から飲み物を勧めてくるのか。

飛行機では酒を飲まない私は、おずおずとジンジャーエールを注文した。ファーストクラスに乗り慣れていないことが丸わかりなはずだが、キャビンアテンダントは「ちょっと半券を見せてもらえますか?」などとは聞いてこない。

これはどうやら本物らしい、とジンジャーエールをストローで吸い上げながら私は考えた。本物のうまい話だ。世の中には本当にこんなことがあるのか。あるのだなあ。私は幸福感に包まれた。そしてこれを、神様からのささやかな贈り物だと思うことにした。

それからニューヨーク到着までの6時間のフライトを、私がたっぷりくつろいで過ごしたことは言うまでもない。全身をのびのびと伸ばし、映画や読書を楽しみ、コースで出てくる料理を賞味した。やっぱり機内食なので料理の味はそれなりだが、皿にのってレストランみたいに次々出てくる豪勢さはハンパない。

そしてその豪勢さを見るたびに、「うーん、エコノミーの乗客はこうまで差別されていたのか、知らなかった」と複雑な気分になるのだった。

***

そんなわけで、世の中には本当にうまい話もある、ということを私はこの時知ったのである。もちろん、ニューヨークに着いてからギャフンというオチが付いたということもない。本当に夢か幻のような経験だった(ファーストクラスで旅行したことがではなく、そんな席をタダで譲ってらえたことが、である)。

推測するに、席を譲ってくれたあのアメリカ人は、おそらく出張か何かで会社がファーストクラスを準備したのだろう。が、奥さんも一緒に旅行することになってエコノミー席を買い、奥さん思いの彼はファーストクラスとエコノミー席を交換して一緒に座ることを選んだ、というようなことだったんじゃないかと思う。

ところで、後でこの話の会社の同僚にした時、彼は信じられないという顔でかぶりを振りながら言った。「おれだったら、嫁さんがエコノミー席にいても、自分だけファーストクラスに座るけどな」

正直な意見だ。ファーストクラスより、エコノミーで奥さんの隣を選ぶ夫はきっと少ないだろう。私はそれを思うたび、あの夫婦に幸あれ、と祈りたい気持ちになるのである。

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