『團十郎切腹事件―中村雅楽探偵全集〈1〉』 戸板康二   ☆☆☆☆

和製ミステリ史上名作の誉れ高い「中村雅楽」シリーズを読んでみようと思い立ち、文庫版全集の第一巻を買った。これはすでに有名だった歌舞伎評論家の戸板康二氏が、江戸川乱歩に「ミステリを書いてみないか」と請われ、書き始められたシリーズである。基本的に舞台は歌舞伎、場合によってはテレビや映画の、役者たちの世界だ。

名探偵役は歌舞伎界の老名優・中村雅楽、語り手は雅楽と親しい文化欄の新聞記者。中村雅楽のモデルはクイーン「悲劇」シリーズのドルリー・レーンらしいが、エキセントリックなところのない、人格円満な老賢者タイプの名探偵である。

本書にはシリーズ初期の18篇が収録されている。それなりにトリックや推理の趣向も凝らされているが、このシリーズの最大の魅力はトリック云々というより、歌舞伎や演劇の世界の蘊蓄、歴史、文化、そして「芸」の世界の奥深さに触れられることにある。演劇文化の魅惑そのものが本書の魅力、といってもいい。

演劇といってもメインは歌舞伎で、歌舞伎は日本古来の芸術なので、当然演劇の世界にとどまらず古美術や江戸時代の風習、しきたり、言葉の由来などについても色々と言及される。著者の絢爛たる博識に酔わされるが、とはいってもヴァン・ダインの「ファイロ・ヴァンス」シリーズみたいなひけらかしや衒学趣味には陥らない。いかにもさりげなく、スマートで、おとなの趣味人の余裕たっぷりだ。

つまり、本書においてミステリはいわば器で、そこに盛られている本当の旨味は演劇の魅惑なのだ。そういう意味で、ミステリはおとなの遊び、という精神を見事に体現したシリーズといっていいと思う。割と耽美趣味やおどろおどろしいものが多い和製ミステリの系譜の中で、こうまで超然とおとなびた世界観は珍しいのではないか。

そういうわけで、いささかなりとも歌舞伎に興味がある人にはたまらない法悦の書だろうが、そうでない人でもちゃんと楽しめるので心配はいりません。

個々の短篇にちょっと触れておくと、デビュー作である「車引殺人事件」はアリバイ・トリックをメインに据えた、上演中に劇場で起きる殺人事件。いかにもなミステリだが、次の「尊像紛失事件」は楽屋で起きる仏像の紛失、その次の「立女形失踪事件」は役者の失踪、そのうち知り合いの甥が探偵社を首になった理由とか、女が忘れていった手帳の書き込みから女の行動を読むとか、犯罪でもないちょっとした謎が題材として扱われるようになる。

もともと洒落た「おとなの遊び」なので、「驚天動地の凶悪犯罪」やら「悪魔の仕業」やらという、こけおどしじみた装飾や形容詞は不要なのだ。

表題作の「團十郎切腹事件」は直木賞受賞作で、いわば本書の目玉商品だが、これはジョセフィン・テイ『時の娘』を思わせる歴史ミステリである。入院した中村雅楽が文献を読んで推理を働かせるだけで、歌舞伎史上の謎とされる役者の切腹事件の謎を解く。完全なベッド・ディテクティヴ。さすがに賞を獲っただけあって仕掛けは鮮やかだ。歴史ミステリだから渋い心理分析ものかと思っていると、意外な大技トリックが炸裂するのでびっくりする。歴史に残る役者の肖像を描く試みとしても秀逸な一篇。

ところが、実は個人的にもっとも印象に残ったのは「等々力座殺人事件」「松王丸変死事件」「盲女殺人事件」「ノラ失踪事件」の四篇の流れだった。他と比べて雰囲気が暗く、独特の心理的な怖さがある。プロット上の特徴は、自殺が多いことだ。自殺に見せかけた殺人ではなく、本当に自殺なのだ。四篇のうち二篇が自殺を扱っている(ちなみに表題作の「團十郎切腹事件」も、タイトル通り自殺を扱っている)。

そして、なぜ自殺したのかが謎となる。これが怖い。自殺を題材にした本格ミステリは珍しいのではないだろうか。そしてもう一つ、人間の嫉妬というものが異様なまでの禍々しさとともに描かれていることも特徴だ。金銭目当てや保身の殺人よりも、はるかに陰惨である。そういう意味で、「松王丸変死事件」と「ノラ失踪事件」の二つは姉妹編のようによく似ている。

一方、「等々力座殺人事件」の陰惨さはまた違う種類だ。このアイデアはある世界的に有名な傑作長編ミステリに酷似しているが、この作者ならではの日本的な暗さ、厳しさのためか二番煎じに陥らず、緊張感をもって読ませる。こけおどし的なおどろおどろしさとは無縁の作家が簡潔な筆致で描くので、人間心理の深淵をのぞき込むような戦慄があるのだ。

「盲女殺人事件」もやっぱり嫉妬が背景になっている。嫉妬というものは人間の感情の中でもとりわけネガティヴで、醜く、しかも強い粘着力を持つものだが、これらの短篇にはそんな人間心理を解剖メスでえぐり出すような冷徹さを感じる。また、この短篇の最後のエピローグ部分のような、ストーリーと直接関係のないふとした文章に、ただのパズル小説ではない、人生の本質をつくようなこの作家の味の深さがあるように思う。

名探偵・中村雅楽の推理はなかなか細かく、緻密だが、論理型というより直観型、ひらめき型である。ひらめきがいくつも組み合わさり、仮説を立てて事実と整合するかどうかチェックすることで真相に迫っていく。そして何より、歌舞伎や芝居の世界に関する博識。なんせ役者の世界、舞台の世界で起きる事件なので、人々の行動やセリフや現場の状況など、有名な歌舞伎の台本や小道具やこの世界の慣習などを踏まえた洞察がなされることも多い。従って、なかなか一般の読者が雅楽と同じ推理をすることは難しいだろう。

そもそもこれは、名探偵と読者が知恵比べをするようなミステリではない。だからフェアじゃない、と言う人もいるかも知れないが、このシリーズに対してそれは野暮というもの。そんなところも含めておとなの遊び、と思って読むべきミステリである。

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