『新・猿の惑星』 ドン・テイラー監督   ☆☆☆★

最初の「猿の惑星」シリーズの三作目を、iTunesのレンタルで鑑賞。いやー懐かしかった。これを昔TVの洋画番組で観たのが、私の「猿の惑星」シリーズ初体験だったのである。

その後一番有名な第一作『猿の惑星』を観たのだが、一作目とこれではだいぶテイストが違っていた。一作目と、駄作と評判の二作目『続・猿の惑星』は人間が猿の惑星に行って狩られる、という悪夢的世界での冒険譚であり、全体を支配するムードは恐怖である。特に一作目は、人間が猿に狩られて実験動物扱いされるという強烈な不条理感と、あの衝撃的なラストで、ディストピアSFの古典となった。

それに対して、この三作目では逆に猿が未来から現代の人間社会へやってくる。舞台は現代社会なのでもちろんディストピアではなく、狩られるのは人間ではなく猿なので、観ている私たちにとってはそれほど恐怖でもない。人間は狩る側であり、本作においてかわいそうなのは猿たちである。

加えて、最初は喋る猿が現れたといって大騒ぎになるので、多分にコメディ・タッチでもある。猿たちは最初は歓迎され、愛され、喝采される。が、やがて人間に警戒心を抱かれて、殺される運命にある。

従って本作はディストピアSFではなく、一篇の奇妙な寓話である。舞台が現代社会なのでセットには大して金がかかっていないし、SFっぽいのは最初にチラッと出てくる宇宙船と、猿のメイクぐらい。前二作と比べて低予算感満点で、三作目になって急にスケールダウンしたと言われるのはそういうところだ。

が、これはこれで私は結構好きである。一番最初に観た「猿の惑星」シリーズ作品という思い入れもあるかも知れないが、猿が主役で人間が悪役、という前作からの逆転が面白い。

本当はえらい人間サマがケダモノの猿に虐待される悪夢、という人間の思い上がりがベースにある「猿の惑星」(実際、この映画のアイデアは人種差別から生まれたとの批判がある)に対して、本作には「しかし人間は、実は猿以上に残酷なことばかりやってきた動物ではないだろうか?」という問いかけがある。反省があり、自省がある。「ウルトラセブン」シリーズで言うならば、「ノンマルトの使者」の回に相当する(<本当か?)。人間の自己批判であり、前作よりもひとつ高い視座に立っている。

さっきも書いた通り、最初は喋る猿が人間社会に現れるわけだからコミカルなエピソードが多い。動物学者がジーラにバナナをあげようとする場面などおかしいし、ジーラが喋った時に女性学者が気絶する、ジーラとコーネリアスが服のショッピングをするなど、観客も楽しく見ていられる。

が、未来社会で猿が支配者となっていることを懸念した政府機関が二人の存在を危険視し始めてから、だんだんとかわいそうな展開になってくる。

この明から暗へのゆるやかな転調はこれまでのシリーズになかったものであり、この映画の寓話としての訴求力を高めている。また、後半急速に盛り上がっていく悲劇性とテンションは、お約束かも知れないが力強い。

本作の終盤は、これまでの二作とは違う意味でとても痛々しい。私たちはさまざまなエピソードを通して、ジーラとコーネリアスを我々と同じ知的な存在として愛するようになっているので、その二人が警察にケダモノのように狩られ、殺される結末は衝撃的で、悲痛の一語に尽きる。赤ん坊までが残虐に射殺されるのである。

私は最初にこの映画を観た時、撃たれて倒れる前に絶望的な怒りで頬を膨らませ、威嚇音を出すコーネリアスの姿が、そして瀕死のジーラが赤ん坊の死体を海に投げ込み、その後横たわるコーネリアスに重なるように倒れて息を引き取る姿が、脳裡に焼きついて離れなかった。コーネリアスとジーラはシリーズ第一作から登場し、一貫して人間の味方だったキャラクターなので、人間によってこの二人にもたらされる最期の痛々しさは、更に救いがたいものとなる。

もちろん本作には、人間側にもジーラとコーネリアスの味方が登場する。それが男女の動物学者、ルイスとステファニーだが、この二人の役割は『猿の惑星』でテイラー大佐を助けるジーラとコーネリアスとまったく同じである。つまり、この二人はジーラとコーネリアスの鏡像なのである。

最後の場面で、ステファニーは猿人二人を射殺しようとする警官隊に向かって止めてと叫び、死んでいく二人を正視できずに顔を覆う。この映画に登場する人間中もっとも良心的で、もっとも感情移入しやすいキャラクターであるこの二人が、実は殺されるジーラとコーネリアスの分身なのだ。

どこに明示されているわけでもないが、映画を観ている私たちはそれを感じることができる。そしてそれが、物語の悲劇性、残酷さを際立たせる。とても素朴で単純に見えるストーリーだが、寓話としての本作のストラクチャーは意外に強靭だ。

そしてもう一つ、この映画が初めて「猿の惑星」シリーズに持ち込んだきわめて重要なコンセプトがある。タイム・パラドックスである。

二作目で地球を滅亡させてしまったため、続編を作りたかった製作陣はジーラとコーネリアスに時間を遡らせることにした。一作目と逆に、ジーラとコーネリアスは未来社会から過去の人間社会へとタイムトラベルしてくるのだが、これが思いもよらず本シリーズを一気に重層化し、センス・オブ・ワンダーを強化するきっかけとなった。

なぜならば、これによって「なぜ猿が人間を支配するようになったか」の、びっくりするような説明が可能になるからだ。つまり、単に人間が退行して猿が進化したということじゃなく、未来からやってきたジーラとコーネリアスの子孫がこの逆転現象の種子となった、という説明が可能となる。

まるでメビウスの輪だ。未来からやってきた喋る猿がすべての原因になったというなら、ジーラとコーネリアスの子孫が、ジーラとコーネリアスの祖先でもあることになる。完全なパラドックスだが、そのパラドックスを生じさせるのがタイムトラベルものの面白さであり、その後の有名作『ターミネーター』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』にまで連綿と引き継がれる、SFのセンス・オブ・ワンダーなのである。

本作においては、この新しい設定が導入されることで人間がジーラとコーネリアスの子供を危険視し、殺そうとする動機が強化される。悪役である政府ご用達学者ハスラインだけでなく、わりと理性的な政府の委員会でさえ、「ジーラとコーネリアスを処分するに及ばないが、人間社会へ及ぼす危険を考えれば、二人の子供だけは生存を許すわけにはいかない」と結論を下すのである。

もし本当にこういう状況になったら、政府機関がこのような決定を下すのはまったくありそうなことであり、それだけにこの物語の進行は観客をぞっとさせる。

そして言うまでもなく、このタイム・パラドックスがあるからこそ、本作のラストシーンの衝撃が成立する。「猿の惑星」シリーズはラストシーンの衝撃、そしてどんでん返しが売り物みたいになっているが、本作の意外な結末は、ジーラとコーネリアスのためによかったという安堵の思いと、来るべき未来への戦慄を同時に掻き立てるという意味で、とても秀逸だ。

個人的には、有名な一作目のラストに勝るとも劣らない見事なエンディングだと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。