『管仲(上・下)』 宮城谷昌光   ☆☆☆☆

知り合いから借りた本で読了。中国の歴史小説である。宮城谷昌光は前に短篇集『沈黙の王』と長編『天空の舟―小説・伊尹伝』を読んで、いずれも神話的というか伝奇小説色が強かったが、本書は文献に基づいて歴史上の人物を描く本格的な歴史小説といっていいと思う。この人はこんな小説をたくさん書いているらしい。いわば中国版・司馬遼太郎である。

この小説の主人公・管仲(かんちゅう)という歴史上の人物を私は知らなかったが、「管鮑(かんぽう)の交わり」という言葉で有名らしい。本書はこの言葉通り、春秋時代の宰相にして二人の偉人、管仲と鮑叔(ほうしゅく)の関係を、まだ無名の頃の出会いからそれぞれが優秀な宰相になっていく過程を通して描く物語である。

鮑叔はまだ十代の頃、故郷から周の都にやってきて二十代の管仲の弟子となって勉強し、管仲の並外れた器量に心酔する。その後色んな国を遊学し、斉に帰って君主の息子の教育係となるが、この時不遇だった管仲を君主に推挙して引き立ててもらう。一方、管仲は父が死に、愚昧な兄が財産を蕩尽してしまったせいで婚約者を失い、不幸から抜け出せず一時期行商人になって苦労するが、やがて鮑叔の引き立てで斉で重用されるようになる。が、暴君じみた斉の君主の素行のせいで国に波乱が起き、管仲と鮑叔は心ならずも対立する立場になってしまう。

大体こんな話だが、前半は管仲の苦労話がメインだ。後に偉人と言われるようになる管仲だが、この時代は鬱々として、悶々と悩み、自分の人生は暗い、先に何の望みもないと落ち込み、自殺まで考える。不幸の大部分は母と兄のせいだが、兄の嫌がらせのせいで愛し合う婚約者を失うエピソードは痛々しい。この頃の管仲の特徴は、一見平凡人にしか見えない人相だが目のある人が見ればとてつもない大器だと分かる、ということのようだ。何度もこういうエピソードが出てくる。

もう一人の主人公である鮑叔は、もともと良家の出身で家族にも環境にも恵まれ、10代の頃から多くの使用人を使う立場であり、まっすぐで陽性な、毅然とした賢人ぶりが特徴だ。彼は管仲の大器ぶりに心酔し、管仲がどんな逆境に陥っても見限ることなく支援し続ける。

この二人の関係が本書の主題だが、私が思うその他の読みどころは大きく二つあって、一つは女性の描き方。本書には管仲、鮑叔はじめ二人の主要な家臣たちにもそれぞれ配偶者を得るエピソードがあるが、登場する女性たちがみんな魅力的で、かつそれぞれが相手と出会い、結ばれる運命的なエピソードが簡潔ながら面白い。

特に管仲は前半、深く思い合った婚約者と引き裂かれる哀切なエピソードがとても印象的で、その後また別の女性と運命的に結ばれることになるが、前半で引き裂かれた相手への想いは彼の人生の通低音となって後々までずっと鳴り響く。こういうロマンティックな彩りが、この物語に単なる偉人伝を越えたふくよかな情感を与えている。

そしてもう一つ、本書の中ではサブ・ストーリーの一つになるが、後半に出てくる斉の君主・襄公(じょうこう)と文姜(ぶんきょう)の物語がとても面白い。文姜は襄公の腹違いの妹なのだが、二人は幼い頃から恋人同士の関係、つまり近親相姦の仲だ。これはまずいというので文姜は他国の嫁に出されるが、それを恨みに思った襄公は、自分が君主の座を継いでから復讐を開始する。文姜の夫を呼び寄せて謀殺し、文姜を再び自分のものとする。

このカップルはどっちかというと悪役で、襄公は国が荒れるもとを作り、文姜は魔性の女みたいな扱いだが、聖人君子みたいな人々が多い本書中、この二人の強烈で破滅的な生きざまは異彩を放っていて、善悪を越えた吸引力で読者を惹きつける。襄公は暴君だし謀略を使う陰険な男だが、文姜に対する一途な思いはまったく揺らがない。かたや文姜も、どれだけ歳月を隔てても兄を尊敬し、愛し続ける一方で、他の煮え切らない柔弱な男どもへの強烈な侮蔑を胸に抱いている。

まあ言ってみれば、この二人にはちょっとボルジア家のチェザレとルクレツィアを思わせるようなところがある。また作者も文姜に対して多少同情的なようで、一般には悪女のイメージが強いが、現代と違う当時の倫理観からするとそうでもなく、むしろフェミニズムのさきがけとして評価の余地があるという意味のコメントを、あちこちで付けている。

さて、先に著者を中国版・司馬遼太郎と書いたが、似ているようでもちろん違う。これは作者の資質の違いなのか、あるいは日本と中国の文化の違いなのか、と考えてみるのも面白いかも知れない。人としての在り方や生き方、あるいはどうすれば国が良くなるか、人が育つか、幸福を得られるか、といった哲学が常にエピソードに盛り込まれていて、読者を考えさせ「なるほどな」と啓発する意味では、どっちも同じだ。が、その哲学そのものが微妙に違うし、その説明、リーズニングの方法が違う。

一つ例をあげれば、中国では(少なくとも本書の中では)徳というものの力が重視されるという。武力や知力には限界があり、徳こそもっとも理想的な支配力だというような話があちこちに出てくる。司馬遼太郎の小説でも主君の徳が語られることがあるが、司馬遼太郎の方が経験論的で、こちらはより観念的だという気がする。

文体は、これも当然ながら漢語表現が多い。漢語をベースにしたと思われる熟語が頻出することで、簡潔で短く引き締まった文章がとても表現力豊かになる。漢詩に通じるものがあって、漢字というもののニュアンスの豊かさにあらためて感心した。最近は、こういう文章を書く作家さんは珍しいんじゃないかと思う。ただし初めて見るような漢字や熟語がどんどん出てくるので、決して読みづらくはないが、読書に慣れない人にはつらいかも知れない。

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