『雁』 森鴎外   ☆☆☆☆☆

前に別のブログで、豊田四郎監督版と池広一夫監督版の二つの『雁』の映画化を見比べてレビューを書いたことがあるが、こうなったら原作も読むしかないと思って読んでみた。一体あのメロドラマティックな物語がどう書かれているのか興味があったし、二つの映画のラストが異なっていたので、原作ではどうなっているのか知りたくなったこともある。

で、その結果、原作小説と映画とでは感動的なまでに違うということが分かった。確かにあらすじは同じだけれども、それをきっちり映像で場面をつないで見せていく映画と、端折ったりぼかしたりしながら言葉のイメージ喚起力で綴っていく小説とではまるで異なり、同じ食材を使った刺身と天ぷらほどの開きがある。要するに、完全な別モノなのだ。

そもそも、小説には映画みたいにメロドラマティックな挿話は一切ない。つまり高利貸と岡田がお玉の家でかち合うことはないし、そもそも高利貸は岡田の存在を知らない。だから嫉妬することもないし、お玉に説教することもない。岡田は高利貸に金を借りないし、お玉が妾だということもおそらく知らない。だからお玉が岡田の本を入手することもなく、岡田のことを父に相談することもない。

そういう、いわば登場人物たちをクロスさせ、ぶつけ合ってハラハラさせるようなプロット上の仕掛けは、原作には一切ないといっても過言ではない。

むしろ、そんな劇的で人工的なエピソードは慎重に排除されている。すべては、ごくさりげない日常のエピソードとして淡々と過ぎ去るのみだ。そんなことで話が面白くなるのかとの疑問に対しては、狙ってる面白さが違うのだというのが答えだろう。この小説の面白さは、大きくいって二つの要素に依存している。一つは心理描写、もう一つは語りの視点である。

一つ目の心理描写については、まず最初にお玉が妾になる経緯が語られるのは映画と同じだが、そこではお玉よりむしろ高利貸の心理の方が詳しく語られる。ヒロインのお玉は、まず高利貸の目から見た欲望の対象として、読者の前に登場する。そして高利貸のお玉への憧れや、彼女を手に入れた喜びや、幸福が詳しく語られる。

次に、お玉と父親の心理にスポットが当たる。もちろん、ここで映画と同じく高利貸の妾であることの引け目がつらつらと語られるが、それでもお玉が高利貸の客と偶然会ったり、罵倒されたり、という劇的なエピソードはない。心理を映像として見せる必要がない小説では、お玉の内面がそのまま、絵巻物のように読者の前に広げてみせられる。

続いて、高利貸とその妻・お常の不和のなりゆきがやはり高利貸視点で描写され、高利貸がお玉に小鳥を買ってやるところで前半が終わる。その後、章が変わって岡田が登場する後半となる。

つまり劇的なエピソードでハラハラさせる代わりに、登場人物たちの心理の綾を丁寧にひもとき、人間関係のタペストリーとして提示してみせる。それが原作のアプローチだ。

そして二つ目の語りの視点、実はこれがこの小説の最重要アイテムだ。視点とはつまり、この話を物語っているのは岡田の友人である「僕」だということだ。「僕」は岡田の友人なので、この事件当時は岡田から話を聞く立場であり、また後年お玉と親しくなって思い出話を聞いてもいる。それらを混ぜ合わせた「僕」の昔語りが、すなわちこの小説なのだが、これを単なる便宜上の体裁に過ぎないと思ったら大間違いだ。それどころか、本書は内容でも筋の面白さでもなく、この巧みな視点設定によって小説として成立しているといっていい。

なぜならば、「僕」はただの公平なカメラ・アイではないからだ。本書はストレートな回想ではなく、当時の見聞と、後でお玉から聞いた話を「僕」が混ぜ合わせたものになっている。従って岡田が知らかったことを「僕」は知っており、お玉が知らなかったことを「僕」は知っている。つまり、「僕」の視点は傍観者というより、限りなく「神」の視点に近い。

加えて、「僕」は物語の当事者でもある。この部分は慎重に隠蔽されているので注意深く読み取る必要があるが、「僕」はこの事件当時、美しいお玉に惹かれており、お玉に思われている岡田を羨んでいる。そして更に重要なことに、この物語の後「僕」はお玉と親しくなった、と打ち明けている。少なくともこの話を聞かされるほどに親しくなったわけだが、具体的に何があったのかは語られない。

劇的なエピソードが意図的に排除されたこの物語で、クライマックスと言ってもいいのはお玉が岡田に夕食を振る舞おうと決心し、結局果たせないエピソードだが、いわば二人の別れを決定づけたこのなりゆきは、実は「僕」が引き起こしたものであることを語り手は告白している。もちろん意図的にではないが、「僕」が夕食の青魚を嫌いで岡田と出かけることにしたせいで、お玉は岡田を誘う機会を逸してしまうのだ。おまけに、この小説の結末近く、「それだけではない」と「僕」はふと手がすべったように書き、そこで口をつぐんでしまう。

これはどういう意味なのだろうか。果たしてこの物語の後お玉はどうなり、「僕」とお玉の間に何があったのか。この物語はまったくその点について語らないが、「僕」の意味ありげな沈黙によって物語が大きく膨らみ、読者の心の中に波紋を広げることは間違いない。要するに、この小説は語られた部分と語られなかった部分とが混然一体となって、謎めいた余韻を持つひとつの大きな物語として、完成するように仕組まれているのである。そしてそれを可能にしたのは、「僕」という語り手の精妙な設定によるものだ。

この「僕」の重要な役割は、映画では完全に抹消されている。「僕」は岡田の友人として豊田監督版では宇野重吉が、池広監督版では井川比佐志が演じているが、ただの傍観者、部外者にとどまっている。

それから私が興味をもった二つの『雁』の結末の違いについては、小説ではまったく書かれていないことが分かった。つまり小説では、その後お玉がどうなったのかまるで分らないのだ。

だからそれぞれニュアンスが異なる映画のラストは、豊田監督と池広監督の解釈の相違ということになる。しかし私見だが、いずれにしても映画の結末は弱い。豊田版では「これだけ?」感があるし、池広版は下手なホラーみたいだ。が、映画にするとああなってしまうというのも、また分かる。語り手の視点トリックを使えない映画では、岡田がいなくなるところでぶった切るわけにはいかないのだ。それでは話が終わらない。

ところが、小説ではそれができる。しかも、謎めいたまま読者の想像に委ね、かつこれ以上ないほどに余韻を膨らませる形で。さすが森鴎外、名人芸というしかない。

その他の違いとしては、岡田が雁を助けようとして石を投げ、それが偶然当たって雁を殺してしまう原作のエピソードは映画にはない。それからこの小説の特徴として、物語展開上の重要な契機、たとえばお玉が妾になることを決意する、岡田に蛇を退治してもらう、岡田を食事に誘おうとして誘えない、岡田が洋行することを知る、などの場面は、第三者の伝聞等でごく簡潔に伝えられるだけだ。映画では「見せ場」としてじっくり描かれている部分だが、原作では逆に、ことさらにさりげなく書かれている。決して本人視点で、詳しい心理描写とともに語られることはない。

映画と小説では別物、と書いた意味をお分かりいただけただろうか。原作では派手なエピソードはあえて排除し、小さな断片的エピソードから語りの力でポエティックな物語を浮かび上がらせていく。語りの力とは饒舌さではなく、むしろ省略であり、視点の切り替えであり、隠蔽なのだ。それが小説の魔法であって、本書はその名人芸をたっぷり味わえる絶好の一例だと思う。

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