『浮き雲』 アキ・カウリスマキ   ☆☆☆☆☆

カウリスマキの『浮き雲』をDVDで再見。これは私のお気に入りフィルムの一つであり、カウリスマキにしては珍しいハッピーエンドになっている。ストーリーは例によって例の如くカウリスマキ・スタイルで、ある夫婦の受難と苦闘が淡々と描かれる。子供のいない(子供をなくしている)、つましいながらも幸福な日々を送るある夫婦。まず、夫、人員整理でクビになる。次に妻、働いているレストランの買収で失業する。夫、仕事が見つかる。と思ったら、健康診断で失格になる。妻、ヘンな斡旋業者を経て、小さなバーで雇われる。が、金もらえない。金を取りにいった夫、ボコボコにされる。妻、元同僚と組んで店を出そうとするが、銀行から相手にされない。夫、全財産をギャンブルでスッてしまう。妻、美容室に行って元オーナーと会い、出資してもらうことになる。そして妻と夫、昔の仲間を集めてレストランを開く…。

カウリスマキの登場人物は、喜怒哀楽をあまり表わさない。顔はほとんど無表情。自分の身に災難が降りかかっても、無表情のままじっと黙っている。うれしいことがあっても、破顔して笑うなんてことは一切ない。口の端がかすかに上がる程度である。そんなカウリスマキの映画には従って、マリオネット芝居の雰囲気が濃厚に立ち込める。エピソードも人を食っていて、たとえば夫が路面電車の運転手をクビになる時は、職場の全員がトランプのカードを引いて決める。クビを言い渡されるシーンはなく、夫が引いたカードを食い入るように見つめる。カードが大写しになる――クラブの3である――これでクビになったことが表現される。決まりかかった仕事が駄目になった時も、夫は帰ってきて「健康診断で落ちた、もう運転手はできない」とだけ妻に告げる。そして、黙って床に倒れる。

このように寡黙で、感情表現にストイックで、マリオネット芝居的にデフォルメされたカウリスマキのトラジコメディは、しかしなぜこれほどまでに胸を打つのだろうか。この映画を観ていてひとつ気づくのは、夫も妻も、失業したこと、生活が苦しくなったことそれ自体には決してくじけないということだ。彼らは立ち向かい、そして戦う。無表情な顔を決然ともたげ、精力的に仕事探しに歩き回る。彼らを支えるのは労働者としての誇りであり、そのために卑屈になることもない。面接で妻は言う。「私は皿洗いから始めて、マネージャーになりました」あの店は古いと言われると「この街で一番のレストランです」バスの運転手の仕事が見つかった時、夫は無表情な顔にかすかな笑みを浮かべ、誇らしげに妻に言う。「働く男にメシをくれ」

こんな彼らが真に挫けそうになるのは、労働者の誇りを傷つけられる時である。健康診断の結果、もう二度と運転手の仕事につけないといわれた夫は、家に帰ってきてバッタリと床に倒れる。そしてこの不幸続きの映画の中で、妻が唯一涙を見せるのは、あるみすぼらしいバーで働くことになった時だ。コックもいない、ウェイトレスもいない、皿洗いもいない。全部自分ひとりでやらねばならない。そう夫に説明して、妻は目に涙をためる。「名前すらない店よ。とてもみすぼらしい店よ」この時、夫は妻を抱き寄せて呟く。「君ならいい店にできる」

そして実際、妻は職場で全力を尽くす。レジ係をやり、ウェイトレスをやり、コックをやる。一人で全部やり、しかもそれを客に見せない。彼女の労働者としての誇りがそうさせるのである。

この寡黙な夫婦のお互いへの信頼感もまた、観客の胸を熱くさせずにはおかないだろう。仕事が見つかって得意げに出勤していく夫を見送る妻の、無言の微笑み。夫が失業しても、運転手失格の烙印を押されても、あるいはギャンブルで全財産をスッても文句一つ言わない妻が家を出て行ったのは、夫が妻の給料を取り返してに行ってボコボコにされ、怪我をし、数日間行方不明になった時だった。彼女は何も言わないし、映画もまた何も説明しない。しかし彼女がどれほど夫のことを心配したか、観客には痛いほど伝わってくる。

ここまで見てくると、この登場人物たちの感情の抑制、マリオネットのような無表情が、カウリスマキの映画表現の上でどれほど強力な武器になっているかが良く分かる。カウリスマキは絶対に感情、そして感動を押し売りしない。だからただぼんやり見ていると起伏がなくて平坦な映画だと思うかも知れないが、細かいところに気がつき始めると観客の心の中でどんどん膨れ上がっていく。たとえば、この夫婦は犬を飼っている。しまいには「壁の土でも食うさ」というところまで追いつめられながら、彼らは絶対に犬を捨てようとしない。それを話し合うことすらない。映画はそのことに取り立てて触れもしないが、この犬は二人が空を見上げるラストシーンに、当然のように一緒におさまっている(夫の腕に抱えられて)。

この映画はまた、いきなり歌から始まる。最初にピアノを弾きながら歌う黒人シンガーが登場し、そこからレストラン内部が映し出され、物語がスタートする。カウリスマキにしてはウェットな、叙情的な始まり方だ。それから劇中、妻が働くレストランが閉鎖になる前にも、かなり長いバンドの歌と演奏が入る。歌詞の内容は若い頃の失われた夢、といった内容で、センチメンタルな曲だけれども、ここでカウリスマキの感傷性へのアプローチに注目したい。役者たちの喜怒哀楽表現は極力抑えられ、その代わりに彼らが耳を傾ける音楽でそれを代弁させている。登場人物たちが音楽を聴く表情は例によってほぼ無表情、しかしだからこそ、観客は彼らの内面を生々しく想像できる。すべてが間接的で、だからこそ説得力を持つというこの逆説的な図式。感情はスクリーン上にではなく、観客の心の中に生じせしめねばならないのである。凡庸な映画監督ならばスクリーン上の大げさな感情描写で観客を動かそうとするところだが、それをやればやるほど映画が救いがたくなることをカウリスマキは知っている。

本作はカウリスマキのスタイルとストーリーテリングが緊密に結びついた、見事なトラジコメディの傑作である。繰り返し観れば観るほど、この淡々としたポーカーフェースの物語が感動的に思えてくるだろう。

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