『怒りの葡萄(上・下)』 スタインベック   ☆☆☆☆☆

スタインベックの代表作であり、アメリカ文学の偉大な金字塔『怒りの葡萄』。私はこの小説が子供の頃から大好きで、もう何度読んだか分からないが読むたびに新鮮な感動を覚える。これこそ深い文学性とワクワクする娯楽性を兼ね備えた最上の芸術作品であり、「読まずに死ねるか」リストの筆頭作品だ。要するに私のオールタイム・ベストの一作なのである。

ジョン・フォードの映画も素晴らしいが、原作の重量感と荘厳さは軽く映画を凌駕する。ストーリーは映画と同じく、銀行や大地主がトラクターを導入して合理化を進め、小作農家の人々は仕事をなくし、住みなれた土地を追われる。オクラホマのジョード一家もそのひとつで、彼らは「仕事あります」のビラだけを頼りに家財道具をおんぼろトラックに詰め込み、カリフォルニアを目指す。しかし光溢れる新天地のはずだったカリフォルニアも決してユートピアではなく、ジョード家の人々の前にあまりに過酷な現実が次々と立ちふさがるのだった…。

要するに、ジョード家の人々はどこへ行っても富めるものが貧しいものをとことん搾取するという残酷なシステムに突き当たり、それを打破するすべを持たない。打破できない構造になっているのである。たとえば彼らはオレンジ農園の「600人募集」などというビラを見て、カリフォルニアには仕事がたくさんあると期待する。「仕事がねえのに金かけてビラを刷るはずがねえ」というわけだが、地主は大量にビラをばら撒き、300人しか要らない仕事に800人を集める。そうすると1時間10セントなどという法外な低賃金で人を使えるからだ。要するに飢えてる奴が集まれば集まるほどいい。貧しい連中はほんの一握りの小麦粉のため、家族を飢えさせないためにどんなきつい仕事でもする。こうして地主たちは飢えた労働者たちの上にあぐらをかき、ますます利益を上げることができる。

それだけではない。家を捨てて旅に出なければならない農民たちのなけなしの家財道具を、商売人たちが容赦なく買い叩く。壊れかけたボロ車を法外な値段で売りつける。それが法外であることを知りながら、農民たちは受け入れるしかない。他に選択肢がないのだ。仕事場のそばの食糧品店ではあらゆるものに町の店より高い値段がついている。「どうにも我慢できねえ、それは12セントのパンじゃないか」と文句を言うと、「じゃあガソリン代を使って町まで行ったらどうだ」と嘲笑される。

あまりの低賃金にストを呼びかける労働者がいると、「アカだ」と言って警官が出てくる。「お前のツラをどこかで見たような気がするな。一緒に来い」というわけで逮捕される。あるいは、警棒で殴られる。家族は飢える。子供は死ぬ。

こうした不条理と理不尽の中で、ジョード家の人々は必死に生き抜こうとする。オクラホマを捨てた直後に、祖父が死ぬ。旅の途中で祖母が死ぬ。長男のノアが「魚を取って生きる」と言って川のほとりに去る。ローザシャーンの夫のコニーは過酷な生活に耐え切れず逃げ出す。こうして家族は一人、また一人と減っていく。彼らの苦難は果てしなく、出口はどこにも見えない。社会の歯車に押しつぶされるのはもはや時間の問題に思える。それでも彼らは歯を食いしばり、力を振り絞って人生に立ち向かっていく。

こんなジョード家の支柱となっているのは人殺しの刑を終えて出てきたばかりの長男のトム・ジョード、そして母親である。あとがきに書かれているように、本編の表向きの主人公はトム・ジョードだが、真の主人公は母親と言ってもいいと思う。彼女はどんな場合にも、家族が一緒にいることを最優先する。家族が一緒にいさえすれば、どんな苦難も乗り越えていけると信じているのだ。その彼女の信念は読者の胸を打つ。

本書は構成も凝っており、ジョード家の物語と社会背景の説明が交互に出てくる。基本的に奇数章で社会背景や本筋にかかわりのあるエピソードが語られ、偶数章でジョード家の運命が語られる。この構成が物語に深みをもたらし、多面的な描写を可能にし、またジョード家以外の独立したエピソードを挿入するなど柔軟なストーリーテリングを可能にしている。

この物語の中では、持てる者は徹底して利己的であり酷薄である。多少なりとも他者への思いやりを示すのは、常に持たざる者たちだ。そしてそれはたまたま善人、たまたま悪人といった単純な図式ではなく、社会のメカニズムでありおそらくは人間性の宿命なのである。持てる者は必然的に利己的になり、権力者は必然的に冷酷になる。そうでなければ自分の立場、優越性を維持できないからだ。

映画は最後に、ジョード家の人々がまたしてもおんぼろトラックで旅をしながら、自分たちは決して消えない、なぜなら自分たちこそが民衆だから、と独白するところで終わる。分かりやすい結末だが、小説はもっと微妙な、そしてはるかに崇高な終わり方をする。土砂降りの雨の中で、ローザシャーンの陣痛が始まる。洪水を避けるため男たちは必死で堤防を築くが、堤防は決壊し、車は水浸しになる。ジョード家の父親は他の家族に罵倒される。そしてローザシャーンの子供は死んで生まれてくる。失意の中、彼らは雨を避けるため古い小屋に逃げ込む。そこには老人と、その息子の少年がいる。老人は飢えのせいで死にかけている。ローザシャーンは老人に自分の乳房を含ませ、母乳を与える。その時ローザシャーンの口元に、かすかな微笑みが浮かぶ。

ジョード家の人々がこれからどうなるのか、暗示やほのめかしの類は一切ない。あいかわらずどこにも希望はなく、失意や苦難だけがある。にもかかわらず、この結末の神秘的なまでの美しさはどうだろう。長大な物語の果てにこの場面にたどり着くといつも、私は胸が苦しくなるほどの感動を覚える。生きていくこと、死ぬこと、世代がつながっていくこと、家族がつながっていくこと、そして多くの人々がつながっていくこと。生命が、ただひたすらに生きていこうとすること。それらのすべてが、このさりげない場面に集約されているからだと思う。

スタインベックの筆致はごつごつしていて、乾いていて、リアリスティックだけれども、本書には不思議な神聖さを感じさせる瞬間がある。それはこの物語が旧約聖書の出エジプト記をベースにしているというだけでなく、この神秘的なラストに、あるいは元説教師ケイシーが死者への祈りを捧げる時、あるいはトム・ジョードが母親に「人々が苦しむ時、腹を立てる時、笑う時、食事をする時、おれはそこにいる」と告げる時、ふとした香りのように立ち昇ってくるものだ。

果てしのない苦難と、それに全身全霊で立ち向かう人々が織りなす圧倒的なドラマ。『怒りの葡萄』は、名作の名にふさわしい至高の文学作品である。

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