『天使のくれた時間』 ブレット・ラトナー監督   ☆☆☆☆☆

所有する英語版DVDをブルーレイに買い替えて再見。久しぶりに観たが、この映画は何度観ても面白い。原題はあっさりと「The Family Man」なのだが、邦題「天使のくれた時間」は妙に説明的かつメルヘンチックで、こそばゆい感じである。とはいえ、まあ内容的にもメルヘンチックであることは間違いない。これはクリスマスを舞台にしたフェアリー・テイルであり、アイデアは有名な『素晴らしき哉、人生!』の翻案である。

つまりどっちの映画も、ある男が現実とは異なるもう一つの人生を見てまた元の現実に戻る、というフォーマットが共通している。『素晴らしき哉、人生!』では悪い世界を見て戻ることで、現実世界にもともとあった幸福に気づく。この映画では良い世界を見て戻ることで、現実世界に欠けていたものに気づく。まあざっくり言うと逆のパターンだが、より正確にいうと、この映画では別の世界は最初は悪い世界と思えるのだが、その後だんだん実はこれこそがよい世界であり、幸福な世界であることに気づく、という複雑な構造になっている。

私は以前のレビューにも書いた通り『素晴らしき哉、人生!』をそれほど高く評価していないこともあって、本作の方がより優れた、より感動的な映画であると主張したい。前者では、主人公が見る「悪い世界」は非常に分かりやすい不幸に満ち溢れている。しかし後者では、主人公の現実は決して分かりやすく「不幸」ではない。なぜならばジャックは金持ちで、地位も名誉もあり、誰もが羨むセレブ人生を送っているのだから。従ってここで変化しているのは、実は世界ではなく、ジャック自身なのである。本作の核心はそこにある。

さて、マンハッタンの豪華ペントハウスに住みリッチな独身生活を満喫、女にもモテモテで「おれの人生に不足しているものは何もない」と豪語する投資会社社長ジャック(ニコラス・ケイジ)は、あるクリスマス・イブの夜に奇妙な黒人青年(ドン・チードル)と出会い、彼から「これから起きることはすべて君自身が招いたことだ」と告げられる。何のことか分からず眠りについたジャックは、翌朝、つまりクリスマスの朝に目を覚まし、自分がニュージャージーの片田舎に住む、妻子持ちの、しがないタイヤ・セールスマンになっていることを発見する。妻は、学生時代に別れたガールフレンドのケイト(ティア・レオーニ)。つまりこれは、「もしもあの時ケイトと別れなかったら」という、イフの世界の話である。

パニックに陥ったジャックはあわててマンハッタンの自分のペントハウスに戻ったり会社を訪れたりするが、誰もジャックのことを知らず、浮浪者扱いされて叩き出される。やむなくニュージャージーの家に戻ったジャックは、とりあえず(他にどうしようもなく)ドン・チードルを呪いながら赤ん坊のおむつを変え、安物の服を身につけ、タイヤを売り、週末の楽しみはボーリングという「悲惨な」生活に甘んじる。ことあるごとにケイトに愚痴をこぼし、ケイトからは「あなた一体どうしちゃったのよ!?」と叱られる日々。

オーマイガー。一体いつになった元の人生、おれ本来のセレブなリッチマン人生に戻れるのか? おれのフェラーリ、高級スーツ、ペントハウスは一体はどこへ行ったのか? しかしそんなジャックが、ケイトや子供たちとの生活の中で、これまで知らなかった何かをひとつ、またひとつと発見していくことになる…。

別世界に放り込まれたジャックが戸惑いまくる前半は、当然ながら秀逸なコメディ・パートとなっていて、大いに笑える。自分のクロ―ゼットを開けて服を見ては嘆き、赤ん坊のおむつを見ては悲鳴を上げる。タイヤ販売店の自分のオフィスに入り、ボーリング大会の写真で自分が笑っているのを見て「お前は何を笑ってるんだ?」とぼやく。思い切ってケイトに真実を説明しようとしても、全部冗談扱いされる。唯一、子供特有の直感からジャックが本物の父親ではないと見抜いた娘のアニーだけが彼の言葉を信じ、「ようこそ地球へ」と言葉をかける。その他、ドン・チードルから渡された自転車のベルをアニーに取られる、ボーリング大会で必死になり過ぎて仲間たちから不審がられる、など笑える場面がてんこ盛りだ。

そしてコメディ・パートがひと段落したところで、徐々にジャックの変化が始まる。あらためてケイトに恋に落ちることがその主要なきっかけだが、最初に大事な変化が訪れる場面、そしておそらくこの映画の中でも指折りの感動的なシーンは、ジャックが何気なく、居間にあったケイトの誕生パーティーのビデオを見るところだろう。ビデオはごく普通のホームビデオで、ケイトの誕生パーティーの模様を撮ったもの。その中で、ジャックがケイトに向かって「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラブ・ユー」を大声張り上げて歌うのである。

最初は、滑稽な自分の姿を見て「おいおい…」と苦笑しているジャックだが、やがてその表情に変化が訪れる。それは驚きである。それまで知らなかった何かが彼を驚かせ、そして思いがけなくも感動させる。それは多分、彼がこれまでの人生で一度も感じたことがなかった感覚である。彼の表情から笑いが消える。沈黙し、ビデオを凝視する。彼は自分の中にあんな自分がいることを、つまり、一人の女性への愛情のあまり周囲の人々に滑稽に思われることを気にも止めない自分がいることを、知らなかったのだ。これまで冴えないタイヤ・セールスマンである「もう一人の自分」に憐みしか感じなかったジャックの胸中に、ある変化が生まれる。

* * *

こうして、「おれの人生に足りないものは何もない」と豪語していたジャックが、ケイトや子供たちや友人たちとの(お世辞にもリッチとは言えない)暮らしの中で、本当の愛情や人間関係を学んでいく。そして再びドン・チードルが彼の人生に介入してきた時、ジャックはもう元の人生には戻りたくないと言う。が、夢の時間には避けがたく終わりがやってくる。必死の抵抗も空しく、ジャックは否応なしに元の人生へと送り返される。ケイトもアニーもジョシュもいない、たったひとりのペントハウスで彼は目覚める。その日はクリスマスの朝である。あのニュージャージーの日々は、ただ一夜の夢だったのだろうか?

しかしいずれにしろ、かつてあれほど必死に取り戻そうとした人生はもはや彼にとって灰色にしか見えない。ジャックは十数年前に別れたケイト、現実世界にいるケイトに会いにいく。いまだ独身のケイトはとっくにジャックのことは忘れ、バリバリのキャリアウーマンになっていて、仕事でパリに赴任しようとしていた。どうしても諦めきれないジャックは、空港まで彼女を追っていく。

そして、旅立とうとするケイトにジャックが空港で懇願するクライマックス・シーン。ケイトは、大昔に別れたジャックが突然よりを戻そうと迫ってくることに困惑顔だ(そりゃそうだろう)。が、ジャックは衆人環視の中で恥も外聞もなく、一世一代の告白をする。彼は「あれはただクリスマスに見た夢だったのかも知れないけど」と言いつつ、ニュージャージーの家のこと、アニーのこと、赤ん坊ジョシュのことを切々と語る。「ジョシュはまだ喋れない。でも僕たちは彼の表情を見て、彼がこの世界について何か新しいものを発見しつつあることを知るんだ。それはまるで、奇跡を見ているみたいな感じなんだよ」そして、だからもう一度だけチャンスをくれ、ほんの少しの時間でいいからと、必死に訴える。この時、ジャックの頭の中にもはやフェラーリ、高級スーツ、ペントハウスは存在しない。

ラストシーンはほろ苦い。もしかしたらこの後、二人には未来があるのかも知れないし、ないのかも知れない(それは誰にも分らない)。しかしたとえ二人がまた一緒になったとしても、ニュージャージーに住んでいたあの家族、あの夢の時間が戻ることはない。できるのは、次善の策としての修復のみだ。もしかしたら二人の人生にあり得たかも知れないあの家族は、失われ、決して取り戻すことはできないのである。これが時間というものの残酷性だ。人生の選択とはすべからく取返しのつかないものであり、そこに人生の根源的な哀しみがある。この映画はフェアリー・テイルであるけれども確実にその一点に触れており、だからこそ感動的なのだと思う。

更に言うならば、この映画はフェアリー・テイルであり、ジャックの成長譚であり、当然ながらすべての人々に教訓をもたらすクリスマス映画としての表の顔を持っていて、フェラーリ、高級スーツ、ペントハウスに憧れるすべての観客に「あなたはそんなものよりもっともっと素晴らしい宝物に恵まれていることに気づいていますか?」と問いかけてくる、そしてそれをかなりうまくやっていると思うが、実はその下に、すべての人の心の奥底に秘められた禁断の願望を刺激する裏の顔を持っているように思う。それは何かというと、過去への憧憬、ひいては、選択しなかった「もうひとつの人生」への憧憬である。

人は選択しなかった人生を振り捨てて前に進んでいくが、実は捨て去ったはずの人生の幻が心のどこかに残っていて、時折、もしあの時こうしていたら…と考え、その幻の人生にひそかな憧れとノスタルジーを抱くものではないだろうか。こういう思いは一般に後ろ向きで非建設的とされる(「たらればを言ってもしょうがない」)し、今の人生を構成するもろもろのもの(家族や、友人たちや、仕事など)に対して失礼だと言われても仕方がないが、しかしこうした「実現しなかった人生」への憧憬は、人間の避けられない条件の一つだと私は思う。そしてそういう思いは決してムダではなく、人生を情緒的にし、人の心を豊かにするものだと信じている。

この映画はそんな、「実現しなかった人生」の遠いこだまであり、私たちが通り過ぎてきた過去から呼び声である。ジャックとケイトのイフの物語は、もはや死んでしまった過去に対して私たちが抱くどこか後ろめたい憧憬を、最大限に拡大し、スクリーン上に万華鏡の如く繰り広げて見せる。この映画のやるせない甘美さは、間違いなくそこに起因している。ジャックが空港に駆けつけ、必死にケイトの姿を探す時、彼の耳が聞いているのは過去からの呼び声である。過去とはそれほどまでに魅惑的で、甘美で、抗いがたいものなのだ。あなた、そうは思いませんか?

ところで、ジャックが一時的に入り込んだもう一つの人生は、ケイトからの伝言が刺激となって見た単なる夢だったのだろうか、それとも本当にドン・チードルの天使が見せた奇跡だったのだろうか。その答えは、この映画の中にはない。それでいいのだ。その二つは同じものなのだから。

空港で始まり空港で終わるシンメトリックな構成も悪くない。ニコラス・ケイジはおかしくてかっこよくて感動的な、キャリア中ベストといえるキャラクター造形だと思う(彼の映画を全部は見ていないが、多分そうだ)。ケイトを演じたティア・レオーニもとてもいい。こんな奥さんならオレもがんばってタイヤ売るぜ、という気になるだろう。しかしなんといっても、この映画の最大の萌えポイントはアニーである。反則的なまでにかわいい。それをまた、あざといスタッフが最大限に利用してくるからたまらん。ジャックが本当の父親じゃないと知った時の泣きそうな顔、泣くのを我慢してジャックに言う「地球へようこそ」、口のまわりについたチョコレートミルク、下手くそなバイオリン。もう、どれをとっても萌え死ぬレベルである。

しかしまあ、ありきたりと言えばありきたりなストーリーかも知れない。斬新なプロットや芸術的映像はどこにもない。これはあくまでハリウッド流のエンタメ作品であって、フェリーニやヴィスコンティや黒澤ではない。が、もしもこういう映画がきれいさっぱりなくなってしまったら、この世界はどれほど寂しい場所になってしまうことだろう。こういう、ほっこりさせて、笑わせて、ごく当たり前のことでじわっと感動させてくれるフツーの娯楽映画が、私は大好きである。

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