『ティファニーで朝食を』 トルーマン・カポーティ   ☆☆☆☆☆

村上春樹訳の『ティファニーで朝食を』を読了。というかそもそもこの小説自体未読だったので、色んな意味で面白かった。

まず、とにかく文章が美しい。文章の美しさだけでいうと『グレート・ギャツビー』より上かも知れない。さすがカポーティ、村上春樹やノーマン・メイラーが絶賛するだけのことはある。が、私はカポーティの短編集(日本語訳)は前に読んだことあるがこうまで美しく感じなかったので、やはり村上春樹の訳業の素晴らしさもあるのだろう。カポーティ+村上春樹のコラボレーションによる小説世界は端整かつ優美、流麗、シックで、洗練のきわみだ。

作品の内容もこの文章にマッチした、はかない、虹色のガラス細工を思わせる物語である。イノセンスの喪失。村上春樹が紹介する作家はカーヴァーにしろフィッツジェラルドにしろみんなそれぞれに「イノセンスの喪失」を扱う作家ばかりだが、カポーティのそれはまたひときわ切なく、甘美だ。この本には『ティファニーで朝食を』以外にも『花盛りの家』『ダイアモンドのギター』『クリスマスの思い出』の三篇が収録されているが、やはりすべてが多かれ少なかれ「イノセンスの喪失」を扱っている。『花盛りの家』のみは温かい、ちょっととぼけた結末になっているが、他の二編は『ティファニー』同様胸を締めつけるような結末を迎える。美しかった昨日が失われた楽園として、悼みの念とともに語られる。カポーティと村上春樹の、流れるように美しい文章で。

『ティファニーで朝食を』といえば映画を抜きには語れないが、村上春樹があとがきに書いているように、確かに映画と小説では大分違う。まず主人公のホリー・ゴライトリーのイメージが違う。小説で読むともっとワイルドな、いかがわしさと無垢のすれすれのところにいるような、まさに野生動物じみた娘だ。ヘプバーンのホリーでは、もちろん映画的な都合だろうが、無垢な可愛らしさが強調されている。

それからそもそも物語の構造が違う。原作の結末では、ホリーは「僕」や他の人々を置き去りにしてどこか遠い場所に旅立ってしまう。映画ではそれまでのさすらいにピリオドを打ち、ニューヨークにとどまる。この結末の違いは、物語そのものを変質させるきわめて重要な変更である。原作はホリーという魅力的かつ哀しい女の肖像を描く。映画はホリーとフレッドのラブ・ストーリーを描く。

本書における作家志望の「僕」は傍観者であり、それ以上の何物でもない。誰もホリーを捕まえておくことはできない。ホリーは自由で、つねにさすらっている。彼女は言う、「空なんてただ空っぽで、だだっ広いだけ。そこは雷鳴がとどろき、ものごとが消えうせていく場所なの」あるいはまた、こんな風に言う。「いつまでたっても同じことの繰り返し。終わることのない繰り返し。何かを捨てちまってから、それが自分にとってなくてはならないものだったと分かるんだ」
自由はホリーの呪いであり、宿命である。彼女はそれから逃れることができない。涙を流しながらも、彼女はすべてを振り捨てて、どこでもない場所へ、空っぽの空へ飛び立っていくしかない。それ以外に生きるすべを知らないのである。「僕」たちは彼女がどこかで幸福になっているのを祈ることしかできない。おそらくそうではないだろうと思いながら。

一方、映画はホリーと作家志望の「僕」=フレッドのラブ・ストーリーである。ホリーは自由な女で束縛を恐れているが、それは克服可能な未熟さとして現れる。誰かに愛されることは束縛ではないと気づいた時、彼女はそれを振り捨てて、フレッドとともにニューヨークにとどまることができる。ここに呪いはない。哀しい宿命もない。

それからまた、「僕」ことフレッドのキャラクターはもう天と地ほどに違う。内向的で、やはり孤独な気質の持ち主である小説の「僕」は、村上春樹が言うように映画の中では「I LOVE YOU」を連発するオール・アメリカン的ハンサムボーイに変貌している。フレッドが年上の女に囲われているなんて設定は映画オリジナルだが、これはフレッドにホリーにつりあう負い目を持たせようとしたのだろう。

私は実のところ映画版『ティファニーで朝食を』もかなり好きなのだが、今回本書を読んで分かったのは、小説は華やかさには欠けるかも知れないけれども、その切なさと美しさではるかに映画を上回る傑作ということだ。

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