『ジーキル博士とハイド氏』 スティーヴンソン   ☆☆☆☆☆

再読。スティーヴンソンといえば『宝島』と言われるが、私にとっては『ジーキル博士とハイド氏』である。子供の頃、私はこの本を布団にくるまって読んでとてつもない恐怖を味わされた。それは衝撃以上、まさに魂を震撼させられたと言っても過言ではない。

この物語は厳密に言えば怪談やホラーではなく、怪奇譚やゴシック譚という範疇だろう。しかし怪談としても完璧なほど見事に構成されている。理想的といってもいい。奇妙でゾクゾクする導入部、異常な事件の発生、深まるミステリー、恐ろしい破局の予感、そして悲劇的な破局とそれに続く戦慄的な謎解き。私は怖い話が好きでこれまでたくさんの怪談やゴシック譚を読んだが、子供の頃読んだ『ジーキル博士とハイド氏』以上に戦慄させられたことはないと思う。いまだに本書がベストである。読んだのが子供の頃だったことを差し引いても、本書が極めて優れた、古典的なスリラーであることは間違いない。

物語の舞台はロンドン。場合によっては華やかでもあるこの大都市には怪奇譚にしっくりくる陰影があって、本書にはそういう暗いロンドンの魅力が溢れている。またスティーヴンソンは雰囲気作りが実に巧くて、読者の水先案内人である弁護士アタスンとエンフィールド氏の散歩の習慣を紹介する陰鬱な冒頭から、たちまち読者を物語の中に引き込んでしまう。

さて、ここから下では物語のアイデアやストーリー展開について触れるので、ネタバレを避けたい人は読まないでいただきたい。










本書のテーマに関して言えば、高潔な人物ジーキル博士が薬品の力を借り、自分の中の「悪」を抽出したハイド氏に変身するという基本的なプロットは多くの人が知っていることと思う。ジーキルはハイドに変身し、夜のロンドンであらゆる背徳的な愉しみに耽る。ジーキルは最初これをすてきな気晴らし程度にしか考えていないが、やがて分身ハイドを制御できなくなり、自分自身を乗っ取られる恐怖に怯えるようになり、ついには滅びていく。これをもって、本書はすなわち一人の人間の中に存在する善と悪の葛藤についての寓話と捉えられることが多く、こう聞くと未読の人は「あーなるほど、分かった。なんかありがちな話だよね」となってしまうかも知れない。はっきり言うが、本書の読みどころはそんな図式的な寓話性、教訓性などではない。

スティーヴンソンは、やはり私の好きな『自殺クラブ』でもそうだが、恐ろしいまでの心理的葛藤を描かせて右に出る者がない。「おお神よ、私は一体なんということをしてしまったのか!」という苦悩である。取り返しのつかないことを起こしてしまった後悔、もしあの一瞬をなかったことにできるなら、という身を切り刻むような懊悩。あなたはそんな経験をしたことはおありだろうか。本書においてジーキル博士を苛むのはこれである。しかもおそらくは、地上のどんな人間もここまで恐ろしい後悔に囚われたことはないだろうというほどの凄まじい苦悩だ。ジーキルの部屋から漏れてくる泣き声を聴いた使用人プールはアタソンに言う。それは地獄に落とされた死人の嘆きのようなたまらなく胸に沁みる泣き声で、それを聞いた自分まで泣きたくなった、と。

『自殺クラブ』と本書の共通点をもう一つ挙げれば、全体に横溢する夢の雰囲気だろう。『自殺クラブ』の印象的な冒頭、クリームパイ売りの青年がフロリゼル王子の前に現れる場面はスティーヴンソンが見た夢をもとにしているらしいが、この『ジーキル博士とハイド氏』を支配するのも間違いなく夢の雰囲気である。もちろん、夢といっても濃密な悪夢だ。

そして、もう一つ私がこの作品から連想するのはクローネンバーグ監督の『ザ・フライ』である。ほんのちょっとしたことがもとで、ブランドル博士は押しとどめようもなく人間ならざるものへと変貌していく。どんなに悔やんでも、もはや取り返しはつかない。その苦しみと恐怖。ジーキル博士の恐怖はこれと同じである。彼も最初は軽い気持ちだったが、予想外のことが起きる。そして絶対に取り返しがつかなくなってしまったあとで、自分がそれと知らず、どんなに恐ろしい運命の歯車を回し始めたのかということを知るのである。

この小説の中には恐ろしい場面がいくつもあるが、子供時分の私を特に戦慄させたのは、ジーキル博士がある日ベッドの中で薬も飲んでいないのにハイドに変身してしまっている自分を発見する場面である。何があっても、ハイドになるならないは自分がコントロールしているのだからと思って安心していたら、なんと、いつに間にか「自然に」ハイドに変身してしまうようになる。もはや、自分がいつハイドに変わってしまうのかと怯えることしかできない。しかも、もっと恐ろしいことがある。ハイドになったら薬を飲まないとジーキルには戻れない。しかし、薬の量には限りがあるのである。ジーキルは同じ薬品を手に入れようとするが、うまくいかない。彼は気違いのようになって次々と使用人にメモを渡す。それには乱れた走り書きでこう書かれている。「どうか、後生だから、以前の品をいくらかでも見つけてくれ!」

自分がハイドになってしまう恐怖に怯えながら少しでも薬品を見つけようと気違いのようになるジーキルは、人間ならざるものに変わっていく恐怖に怯えながらなんとか人間に踏みとどまろうとするブランドルの映し鏡である。ここには間違いなくクローネンバーグ的感覚がある。肉体が変容する恐怖、そして絶望的な後悔。一人の人間の中の善悪の葛藤だ何だという図式的な解釈はどうでも良く、この物語の真価は、この恐るべき心理的葛藤と恐怖の創造以外にない。

そしてあの、ジーキル邸における見事なクライマックスがやってくる。嵐の夜アタスンがプールの呼び出しに駆けつけると、恐怖に怯える使用人たちが暗い屋敷の中で寄り集まっている。プールは青ざめた顔でアタソンに言う。「私たちは怖い。今ご主人の部屋にいるのは、ご主人ではない誰か別の人間です!」

ゴヤかレンブラントの名画を思わせる、陰鬱と恐怖に彩られた素晴らしい場面だ。そしてアタスンとプールがジーキル博士の部屋のドアをぶち破るクライマックスの後、ラニョン博士の手記、ジーキル博士の手記ですべてが告白され、この異常で悲しく、あまりにも恐ろしい物語は終わる。子供時分に初めてこの物語を読んだ時、読み終わった後の私の茫然自失感はそれはもうすさまじいものだった。

非常に簡潔な構成の薄っぺらい本でありながら、その力強さは比類がない。五体満足なのになぜか他人の目に畸形の印象を与えるハイド、ジーキルの部屋から聞こえてくる奇妙な足音、ジーキルの部屋に置かれている大きな姿見、これには色々あやしいものが映ったことでしょうね、というプールのセリフなどディテールも印象的で、一部の隙もない。

古典の風格を持つスリラーであり、怪談であり、綺譚であり、暗く憂鬱な空想科学小説でもある。古いゴシック譚だと思って敬遠している人がいたらあまりにももったいない。先入観を捨てて是非手に取ってもらいたい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。